いまはほんまるとほの一角にある天守台だけがのこる伊勢神戸城(いせかんべじょう)。説明がきにこうかいてある。
三重県指定・史跡
神戸城跡1937年12月14日指定
伊勢平氏の子孫関氏の一族神戸氏は、南北朝時代(14世紀)飯野寺家町(いいのじけ)の地に沢城を築いたが、戦国時代の1550年には、この地に神戸城を築いて移った。
神戸氏7代目友盛は、北勢に威を振るったが、信長軍の侵攻により1568年その三男、信孝を養子に迎えて和睦した。
信孝は、1580年ここに金箔の瓦も用いた五重の天守閣を築いた。しかし、本能寺の変后、岐阜城に移り、翌年秀吉と対立して知多半島で自刃し、1595年には天守閣も桑名城に移され、江戸時代を通して天守閣は造られず、石垣だけが残された。
江戸時代、城主は一柳直盛(ひとつやなぎなおもり)、石川氏3代を経て1732年本多忠統(ただむね)が入国する。
本多氏の治世は140年間7代忠貫(ただつら)まで続き、1875年城は解体される。
その后、堀は埋められ城跡は神戸高校の敷地となった。天守台や石垣に悲運の武将を偲ぶことができる。
〔2023年1月ここのか訪問〕