津城

2020.11.19 (101) 津城 - 西南のはしから西ノ丸え 1990-1480

西之丸のいりぐち。内堀を、みなみがわのいちばんにしのほうにかかっとるはしでわたって、はいっていく。

2020.11.19 (102) 「津城あと」 2460-1940

はしをわたって、いしがきのきれめからいったすぐのとこに、「津城あと」の説明がき。

三重県指定史跡/所有者:津市/安土桃山時代/2005年3月25日指定
津城あと

津城は、織田信長のおとうとの織田信包(おだのぶかね)によって築城された。1580年に5層の天守閣が完成し、ほれまで柳山あたりにあった町屋がうつされて城下町がつくられた。ほのあと、富田氏が城主となり、1600年関ケ原のたたかいの前哨戦で西軍の攻撃をうけ、津のまちは戦火にあい、荒廃した。

1608年藤堂高虎(とうどうたかとら)が伊予今治からうつってくると、本丸のきたがわをひろげていしがきをたかくして、りょうはしにやぐらを新築したり内堀、外堀とも整備したりするなど大改修をくわえて。ほいで、しろを中心にきた、にし、みなみに武家屋敷を、ひがしには町屋をおき、まちはずれをとおっとった伊勢街道を城下町にひきいれ、まちの発展につとめた。

また、城下町のひがしのはしに堀川をほり、ふねをいれて商業発展に利用するとともに、城下のそとがわのまもりとした。また、堀川のそとがわには寺院を配置し、万一のばあいの防御の最前線とした。にしがわの武家屋敷のにし一帯は湿田で、ここに町屋をたてることを禁止し、万一のばあいと火災にそなえた。

2020.11.19 (102-1) 「津城あと」 - 地図 540-590

① 本丸
いしがきがきれたところには埋門(うずめもん)ってよばれる門があった。周囲には丑寅三重櫓をはじめいつつの櫓があって、多門櫓ってよばれるわたり廊下のようなもんでつながれとった。

② 西之丸
現在はにほん庭園になっとるけど、むかしは番所や倉庫があった。西南には玉櫓と外郭からはいるとかぎのてにまがったところに2階の櫓門があった。本丸とのさかいにはにしの鉄門があり、土橋でつながっとった。

③ 東之丸
現在は商工会議所や公園になっとるけど、かつてはちいさなおみやさんがあったっていわれとる。

④ 内堀
本丸、西之丸、東之丸をとりかこんどったけど、順次うめたてられて現在は本丸と西之丸のまわりにのこっとるのみである。

⑤ 二之丸
内堀と外堀にかこまれたところで、重臣の屋敷や藩政の中心機関があった。また周囲には12のちいさな櫓がきずかれ、きた(京口御門)、にし(伊賀口御門)、みなみ(中島口御門)に門がもうけられとった。
1820年には、藩校有造館(ゆうぞうかん)(現在のNTT西日本三重支店付近)がおかれた。にほん庭園のなかに有造館の入徳門(にゅうとくもん)(市指定史跡)が移築されとる。

⑥ 外堀
しろのうちとそとをくぎるほりで、岩田川からみずをとりいれとったためしおの干満で水面が上下した。現在はすべてうめられとる。

2020.11.19 (103) 津城 - 入徳門 1900-1500

ひがしにすすんで、入徳門(にゅうとくもん)。藩校有造館(ゆうぞうかん)の講堂の正門をここに移築したもん。

2020.11.19 (104) 津城 - 西ノ丸から本丸え 2000-1500

西之丸から本丸にはいっていく。

2020.11.19 (105) 津城 - 藤堂高虎公馬上像 1500-2000

本丸はまんまるひろばになっとって、ほのみなみがわに藤堂高虎公馬上像。

2020.11.19 (106) 津城 - 説明がき地図 2000-1500
2020.11.19 (106-1) 津城 - 説明がき地図 1300-1300

ほのわきに説明がきがあって、地図に、津城や津観音四天王寺の位置、伊勢街道の経路がしめされとる。

2020.11.19 (107) 津城 - やぐら 1500-2000

本丸からひがしにでるとこで、いしがきのうえにやぐら。

2020.11.19 (108) 「津城あと」 2350-1890

やぐらのしたに、また、「津城あと」の説明がき。さいしょのと、じゃっかん文面がちがう。

三重県指定史跡/所有者:津市/安土桃山時代/2005年3月25日指定
津城あと

津城は、織田信長のおとうと織田信包(おだのぶかね)によって築城された。信包は信長が伊勢へ勢力をのばしてきたとき、長野氏の養子にはいったもんである。1580年には5層の天守閣が完成し、当時柳山付近が中心であった津のまちから町屋や寺院がうつされ城下町がつくられた。ほのあと、富田氏が城主となり、1600年関ケ原のたたかいのとき西軍の攻撃をうけ、しろ、城下町とも戦火をうけた。

1608年藤堂高虎(とうどうたかとら)が伊予今治からうつってくると、しろに大改修をくわえ城下町を整備した。本丸をひろげ、いしがきをたかくしてきたがわのいしがきに角櫓(すみやぐら)をきずき、ほりも整備したけど、天守閣は再建されんかった。津城は典型的なひらじろで、ほりが「回」の字がたに二重にめぐっとる輪郭式(りんかくしき)または囲郭式(いかくしき)っていわれるかたちのしろである。

城下町は、しろを中心にきた、にし、みなみがわに武家屋敷ひがしがわに町屋がおかれた。まちはずれをとおっとった伊勢街道を城下にひきいれ、まちの発展をはかった。また、堀川をほり、ひがしがわのまもりとしたが、物資の運搬にも利用され商業の発展にやくだてられた。さらに堀川のそとがわには寺院を配置し、万一のばあいにそなえた。

2020.11.19 (109) 津城と城下町 1870-1630

【本丸】
しろのなかでもっとも重要なとこだけど、現在は洋風庭園になっとる。西南すみのいしがきが1段たかくなったとこに5層の天守閣があった。また天守台のややひがし、いしがきがきれたところには埋門(うずめもん)があった。周囲には丑寅三重櫓をはじめいつつの櫓があって、多門櫓でつながっとった。

【西之丸】
現在はにほん庭園になっとるけど、むかしは番所や倉庫があった。西南には玉櫓と二階門があった。門はいりぐちがかぎのてにまがり、いわゆる桝型門といわれるもんだった。本丸とのさかいは土橋でつながっとった。

【東之丸】
現在は商工会議所や公園になっとるけど、かつてはちいさなおみやさんがあったっていわれとる。

【内堀】
本丸、西之丸、東之丸をとりかこんどったけど、順次うめたてられて現在は本丸と西之丸のまわりにすこしのこっとるだけである。

2020.11.19 (110) 「津城 - 江戸末期と現在」 1250-1410

【二之丸】
内堀と外堀にかこまれたところで、重臣の屋敷や藩政の中心機関があった。また周囲には12のちいさな櫓がきずかれとった。幕末には、藩校有造館(ゆうぞうかん)(現在のNTT三重支店になっとるとこ)がおかれた。現在西之丸のにほん庭園のなかに有造館の入徳門(にゅうとくもん)が移築されとる。

【外堀】
しろのうちとそとをくぎるほりで、岩田川からみずをとりいれとったためしおのみちひきで水面が上下した。きた、にし、みなみに門がもうけられとった。現在はすべてうめられとる。

2020.11.19 (111) 津城 - 本丸みなみぐち 1600-1200

まんまるひろばにもどって、みなみのいしがきのきれめから本丸のそとにでる。

〔2020年11月19日訪問〕