2021-03-23 上野城址の説明がきと上野城絵図 あるく 上野城址(上野上村城址) 応仁のころ(1467年)伊勢貞親の被官であった戸田弾正左衛門宗光による築城とつたえられとる。しろの周囲には、自然地形を利用したほりがめぐり、西南に本丸、東北に二の丸が配されとる。 宗光は1475年に次男の家光をのこして渥美郡大津にうつり、田原城をきずいて田原城主となった。その后家光もほどなくして田原にうつっとる。 1493年、上野城にあった阿部孫次郎は寺部の鈴木氏、挙母の中条氏、八草の那須氏、伊保の三宅氏らと連合して松平親忠と井田野(岡崎市)にたたかい、やぶれて、松平氏に服属した。その后このしろには松平内膳正信定と、そのこ清定が在城した。 清定は1545年、松平広忠とたたかい、1546年に降伏して桜井(あんじょうし)に蟄居(ちっきょ)のみとなり、かわって、酒井将監忠尚が入城する。しかし、1563年、三河一向一揆がおこると忠尚は一揆がたにみかたしたため、隣松寺(りんしょうじ)に本陣をひいた徳川家康によってせめられることになる。1565年、一揆がしずまって忠尚は駿河にのがれ、上野城は落城した。落城后は家康により、上野七人衆とよばれる在番衆がおかれた。 豊田市教育委員会 上野城絵図 「諸国古城の絵図」より諸国古城の絵図は広島藩主7代浅野重晟(あさのしげあきら)の時代(1767年~1799年)に作成されたもので、藩士のかたがたによってあつめられ、作図者は不明とのことです。元禄年間(1688年~1703年)、藩校修道館がもうけられ、さらに1782年に講学所が設置されており、それら藩校の軍学(山鹿流?)にもちいられたものとかんがえられます。 (藩史事典による) 〔2021年3月23日訪問〕