海津市(かいづし)は高須(たかす)にある海津市歴史民俗資料館に高須の地図が展示してある。てがきによる地図で、まんなかうえのほうに高須城あと。いや、ここってじょうかまちだっただ。
おなじく海津市歴史民俗資料館にまあひとつ高須の地図が展示してある。これは現況にじょうかまちのまちわりをかさねたもん。ほんまるからにのまる、さんのまる、武家やしき、まちやのすべての区域がいまのまちなかにおさまっとる。
まちなか、主水橋のちかくに高須じょうかまちの地図。ほんまる、にのまる、さんのまる、武家やしき、まちやがいろわけされとって、整然としたまちわりがなされとることがわかる。
地図にあわせて説明がきにつぎのようにかいてある。
高須城とじょうかまち 高須城は、1522年に大橋源左衛門重一が築城したとつたえられとる。ほのあと城主はいくにんもかわったが、1600年の関ケ原のたたかい以后の城主はつぎのとおりである。
松平氏は、尾張藩2代藩主徳川光友のこ松平義行を祖として明治までつづいた。尾張藩の支藩として、このあたりの1万5千石のほか信濃のくに伊奈郡※に1万5千石を領地しとった。 松平氏の居館は、このきたにある西大江川のほとりにあった。すべてのみちは、内部をみとおせんようにかぎのてになっとった。じょうかまちはしろのみなみにひろがり、現在の岐阜県立海津明誠高校(かいづめいせいこうこう)のあたりや海津市立高須小学校のあたりに諸役所や武家やしきがならんどった。まちやは武家やしきのひがしのいちだんとたかい自然堤防のうえにのきをつらねとった。 (高須藩松平3万石顕彰会) |
ほいから海津市歴史民俗資料館には高須をふくむ海津市全体の地形模型が展示してある。揖斐川よりにしは養老山地のひがし斜面になるけど、ほれ以外は揖斐川と長良川にはさまれた輪中(わじゅう)になる。
〔2022年7月28日訪問〕