大樹寺の由緒がき

2023.2.28 (74) 大樹寺 - 本堂 2000-1500
2023.2.28 (76) 大樹寺 - 沿革 2400-1820

大樹寺(だいじゅうじ)は本堂てまえみぎに由緒がきがあって、つぎのようにかいてある。

◇            ◇

大樹寺沿革

  • 1467年8月23日、井田野(いだの)の合戦で多くの死者が出たので、松平4代親忠公勢誉愚底上人(せいよぐていしょうにん)に帰依して7日7夜の別時念仏会を修し、敵味方の別なく千人塚を作って葬った。その后、1475年、親忠公は、熱心な念仏者となり、愚底上人を開山として大樹寺を建立した。それ以来、大樹寺松平家・徳川家の菩提寺として1千石近い石高を受け、大樹公寺と称し、20有余の末寺を持つ東海の名刹となった。
  • 現在でも岡崎城天守大樹寺総門・三門・本堂は南北一直線上にある。
  • 本尊の阿弥陀如来は平安末期の作と言われ、一光千体の阿弥陀如来として信仰されとる。
  • 親忠公は愚底上人より在家としてはじめて五重相伝(ごじゅうそうでん)を受けられたので、大樹寺は浄土宗五重相伝の根源道場として知られとる。
  • 松平9代家康公は19才の時、桶狭間の合戦で今川義元織田信長に殺されたので、身の危険を感じ、大高城から大樹寺に逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとした。大樹寺住職登誉天室上人(とうよてんしつしょうにん)はこれをとどめ「厭離穢土欣求浄土の教えを説き、家康公に浄土念仏の尊さを教えた。それ以来、家康公は熱心な念仏者となり、生涯この「8文字」を座右の銘とした。この時、家康公を追う野武士の一隊が大樹寺を囲んだが、「厭離穢土欣求浄土」の旗を立て、大力無双の祖洞和尚(そどうおしょう)が門の貫木(かんぬき)を引き抜いて奮戦し、敵を退散せしめた。これを大樹寺の陣という。家康公はこの貫木を「開運の貫木」として尊信したが今もこの貫木は大樹寺に安置されとる。
  • 家康公が陣中において人知れず書いた「陣中名号」はたくさんあるが、この寺にも署名された「名号」がおさめられとる。
  • 松平の御8代の墓は西方墓地の北側にあり、近年、家康公の墓を模した供養塔も岡崎市民により建てられた。
  • 三門と鐘楼は3代将軍家光公の建立で、三門楼上の「大樹寺」の扁額は后奈良天皇の宸筆(しんぴつ)である。西方に見ゆる多宝塔は1535年、松平7代清康公の建立で、重要文化財に指定されとる。本堂と大方丈(おおほうじょう)1855年に焼失したが、1857年、13代将軍家定公の時に再建された。大方丈の障壁画は、土佐派の画家、冷泉為恭(れいぜいためちか)の描いたもので、146面あり、国の重要文化財に指定され、その一部は収蔵庫に陳列されとる。

どこにもあんじょうとはかいてないけど、あんじょう松平の初代城主になった松平4代親忠が菩提寺として大樹寺をつくった。松平が本拠をあんじょうから岡崎にうつすのは松平7代清康のとき。

〔2023年2月28日訪問〕


【川向いきバスと大樹寺のたび】