安土山のてっぺんにある安土城本丸。説明がきにつぎのとおりかいてある。
本丸あと
- 天主台を眼前にあおぐこのばしょは千畳敷(せんじょうじき)とよばれ、安土城本丸御殿のあととつたえれらてきました。東西およそ50メートル、南北およそ34メートルの東西にほそがないしきちは、三方を天守台、本丸帯廓(ほんまるおびくるわ)、三の丸の各いしがきでかこまれ、南方にむかってのみ展望がひらけております。1941年と1999年の二度にわたる発掘調査の結果、東西およそ34メートル、南北およそ24メートルの範囲でごばんめ状に配置された119個のたてもん礎石が発見されました。7尺2寸(およそ2.18メートル)の間隔で整然と配置された自然石のおおきな礎石には焼損のあとがみとめられ、一辺およそ1尺2寸(およそ36センチ)のはしらあとがのこるものもありました。4寸から6寸(12センチから18センチ)のはしらを6尺5寸(およそ1.97メートル)間隔でたてる当時の武家住宅にくらべて、本丸たてもんの規模と構造の特異性がうかがえます。
- 礎石の配列状況から、なかにわをはさんで3棟にわかれるとかんがえられるこのたてもんは、天皇のすまいである内裏清涼殿(だいりせいりょうでん)と非常によくにとることがわかりました。豊臣秀吉が1591年に造営した内裏の清涼殿などを参考にして復元したのがみぎの図です。西方の清涼殿風のたてもんは、密にたちならんだふとくてたかい床束(ゆかづか)が1階のゆかをささえるたかゆか構造のたてもんであったとかんげられます。おおてみちをいくひとびとは、天主わきにそそりたつほのすがたを正面にあおぎみながらのぼったことでしょう。
- なぜ、安土城天主の直下に清涼殿に酷似したたてもんがたてられとったのでしょうか。『信長公記(しんちょうこうき)』には天主ちかくに「一天の君、万乗の主の御座御殿(いってんのきみ・ばんじょうのぬしのござごてん)」である「御幸の御間(みゆきのおんま)」とよばれるたてもんがあり、うちに「皇居の間(こうきょのま)」がもうけられとったことをしるしております。信長の二度にわたる安土城への天皇行幸計画は実現しませんでしたが、この本丸たてもんこそ、天皇行幸のために信長が用意した行幸御殿だったのではないでしょうか。
〔2021年7月15日訪問〕