安土城(あづちじょう)は、おおてみちをずーっとのぼっていって、くるわのいりぐちにあるのが黒金門(くろがねもん)。
黒金門(くろがねもん)あと
- ここは、安土城中枢部への主要ないりぐちのひとつである黒金門のあとです。周囲のいしがきをこれまでみてきた石塁やくるわのいしがきとくらべると、つかわれとるいしのおおきさにおどろかれることでしょう。1993年度の発掘調査では、黒金門付近も天主とともに火災にあっとることがわかりました。多量のやけたかわらのなかには、菊紋(きくもん)、桐紋(きりもん)などの金箔がわらもふくまれておりました。壮大な往時のすがたがしのばれる黒金門よりさきは、信長がえらばれた側近たちと日常生活をおくっとった、安土城のまさに中枢部となります。
- たかくそびえる天主を中心に本丸、二の丸、三の丸などの主要なくるわで構成されるこの一帯は、標高が180メートルをこえ、安土山ではもっともたかいところにあります。東西180メートル、南北100メートルにおよぶほの周囲は、たかくがんじょうないしがきでかためられ、周囲からは屹立しております。たかいしがきのすそをはば2メートルから6メートルの外周路がめぐり、やますそからつうじる城内道とむすばれております。外周路の要所には、隅櫓、櫓門などでまもられたいりぐちが数か所もうけられております。この黒金門は、じょうかまちとむすばれた百々橋口道(どどばしぐちみち)、七曲口道(ななまがりぐちみち)からのいりぐちなのです。
- 安土城中枢部のたてもんは本能寺の変の直后にすべて焼失したため、ほのおのすさまじさをのこすいしがきと礎石によって往時の偉観をしのぶことができるだけです。しかし、400年以上にわたってくずれることなく、ほぼ原形をたもってきたいしがきの構築技術のたかさにおどろかされます。さまざまな表情をみせる安土城のいしがきのすばらしさをご鑑賞ください。
- 1995年度から2000年度の発掘調査から、この一帯のたてもん群が多層的に結合されとる可能性がでてきました。ここから天主にいたる通路や天主から八角平への通路のうえにはおおいかぶさるようにたてもんがたちならび、当時のひとびとは地下通路をとおって天主へむかうようなかんをおぼえたのではないでしょうか。
- 主郭部平面図
ひだりうえは、安土城炎上およそ100年あとのすがたをつたえる「近江国蒲生郡安土古城図」(1687年/総見寺蔵)にえがかれた主郭部のすがたです。現在つかわれとる名称のおおくは、この古城図によっております。
主郭部のいしがきは、1960年から1973年に修理工事をおこなっております。いしがきのてんばがそろっとるもんは修理したところで、くずれとるもん(二の丸、天主台)は廃城あとほのままの状態をたもったいしがきです。
なお、着色部分のみが公開されておりますので、ほれ以外へはたちいらんでください。
〔2021年7月15日訪問〕