村別領主いちらん(江戸時代)
- 大林村
- ふるくは上野荘という。1617年、渡刈村から分村。
- 岡崎藩 - 1645年~1769年幕府 - 岡崎藩
- 竹村
- ふるくは重原荘という。源義経の臣、鈴木七郎が開拓という。
- 刈谷藩 - 1630年西尾藩分家旗本本多氏(西端陣屋) - 元禄(1688年から1704年)のころ幕府と本多氏の相給 - 岡崎藩と西端藩(本多氏が大名となる)の相給
- 西田新郷
- 1664年、鴛鴨村から分村。
- 岡崎藩 - 1764年~1772年岡崎藩と幕府の相給 - 岡崎藩と上総菊間藩の相給
- 若林村
- ふるくは重原荘という。1054年民家18軒ではじまり、若林小左衛門がむらを管理したという。
- 刈谷藩 - 1671年刈谷藩分家稲垣氏 - 1740年稲垣氏と幕府の相給
(稲垣氏、旗本松平氏、上総菊間藩の3相給の時代もみえる)
- 吉原村
- 1632年松平忠房が花園村から開墾者を募集して開墾。1676年花園村より分村。
- 刈谷藩 - 1671年刈谷藩分家稲垣氏
- 中根村
- 1633年花園村から10戸で分村。
- 刈谷藩 - 1671年刈谷藩分家稲垣氏 - 1740年幕府 - 1778年駿河沼津藩(1868年上総菊間藩と改称)
- 花園村
- 桜花の名所とも、丘陵のはしに位置するため鼻岡といわれ、ほれを花園に改称したともいう。「花園山」の寺号をもつ養寿寺(ようじゅじ)は、養和年間(1181年~1182年)の創建という。
- 刈谷藩 - 1671年刈谷藩分家稲垣氏 - 1740年幕府 - 1778年駿河沼津藩(1868年上総菊間藩と改称)
- 駒場村
- ふるくは重原荘という。小浜から転じて駒場とも、知立馬市の馬宿場から駒場ともいう。
- 刈谷藩 - 明治初年以降重原藩
- 乙尾村
- 杉本氏の居住によりはじまる。中世期高橋荘中条氏の子孫が領主との伝承あり。
- 岡崎藩 - 1763年西大平藩
- 堤村
- ふるくは重原荘という。碧海郡と加茂郡との境の堤をひがしは大堤、にしは伊勢堤といったのでこのながある。本地、本田、西山、大島、前林、新馬場(しまんば)、町のななつの集落があり、堤7か村といった。
〔※ さらに「町」は平松、宮崎、御茶屋、上町(そらまち)、下町(したまち)にわかれとる〕
- 1632年より刈谷藩 - 幕末刈谷藩と重原藩の相給
- 中田村
- 土御門(つちみかど)天皇の時代、鎌倉街道に茶店があり、ほの分家がにしのいけのみずで農業をはじめたという。はじめ中田7軒百姓があった。のちにむらとして独立。
- 刈谷藩 - 1670年刈谷藩主松平忠房が領内からひとをあつめて開拓
※ 相給(あいきゅう)とは、ひとつのむらがふたり以上の領主の支配地となること
※ 『高岡村誌』、『高岡町誌』、『日本地名大辞典 愛知県』(角川書店)、『愛知県の地名』(平凡社)
〔2021年3月ここのか訪問〕