岡崎公園の一角、岡崎城のちかくにアラモのいしぶみがある。岡崎出身の地理学者志賀重昂(しがしげたか)が、テキサス独立戦争のアラモのたたかいと、長篠城(ながしのじょう)のたたかいがようにとることに感心してたてたもんだ。アラモのとりででは、青年ボナムが援護をもとめて友軍のもとにはしった。長篠城のたたかいでは、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)が、敵軍にとらえられながらも援軍のとうちゃくがまちがいないことを自軍につたえた。
三州長篠古戦場鳥居強右衛門 1914年7月 岡崎 志賀重昂 詩 水戸 北条時雨 書 |
アラモのいしぶみ このいしぶみは、郷土岡崎出身の世界的地理学者志賀重昂氏が建立されたものです。 志賀重昂氏は、テキサス独立戦争アラモのたたかいとにほんの三州長篠城のたたかいがよくにとることにふかい関心をよせられました。アラモのとりでから援兵をもとめ友軍のもとにはしった青年ボナムと、長篠城を脱出し岡崎城の家康公に危急をしらせた鳥居強右衛門の両者の「つよい使命感に東西のべつはない」と感動し、建碑をおもいたち、岡崎のいしと長篠のいしをつかって、自作の漢詩を彫刻し、1914年にサンアントニオ市アラモとりで史跡の一角に記念碑を建立されました。 |
〔2020年4月29日訪問〕
(さんこう)
- 菅生神社 - あきひこゆめてつどう|2020/04/29
- アメリカのたび4サンアントニオのアラモのとりで|2015年8月2日
- 志賀重昂 - Wikipedia
- 志賀重昂(しがしげたか、1863年 - 1927年)は、日本の地理学者、評論家、教育者、衆議院議員。矧川(しんせん)・矧川漁長を号した。
- 岡崎藩の藩校の儒者・志賀重職の長男として、三河国岡崎康生町(現・愛知県岡崎市)に生まれた。1868年に重職が没した后は、母・淑子(しく)の実家、松下家で育った。
- 墓所は、遺言により東京都杉並区下高井戸宗源寺にある。 出生地、岡崎市の世尊寺に分骨されとる。東天竺山世尊寺は、重昂が企画して果たさんかった遺志に従い、地元の人たちが1928年10月に落成させた寺院である。隣接する岡崎市東公園には重昂が1911年に東京の邸内に設けた亭を1929年に移築した『南北亭』もある。
- 日本ラインの名は、1913年、重昂の命名によった。美濃加茂市祐泉寺に記念碑が建つ。また、恵那峡の名は、1923年、重昂の命名によった。
- 1961年7月1日、岡崎市の名誉市民に推挙された。