明治大正期の高岡
- 明治以降、あたらしい行政区再編のなかでむらの合併がすすみ、1889年には、駒場村、若園村、堤村、竹村の4か村、さらに1906年5月ついたちには、この4か村が合併して高岡村となった。
- 近代の高岡にとっておおきなできごとは、枝下用水(しだれようすい)の開通である。1886年に本格化した西沢真蔵(にしざわしんぞう)による枝下用水開削事業は、かずかずの困難をのりこえ、1892年に中用水(挙母~吉原)、1894年に西用水(挙母~駒場)が完成し、1800年代末から1900年代はじめには高岡の丘陵地帯もみずにめぐまれ開拓が急速にすすんだ。
- 1800年代末から1900年代はじめの統計書(竹村のみデータなし)によると、どのむらもおもな産物はこめだが、かんしょの生産がついでおおく、実綿、たばこ、茶の生産もみれる。またかわらの生産は、若園村、堤村、駒場村でもおこなわれとったことがしれる。
〔2021年3月ここのか訪問〕