三河のくには碧海郡(へっかいぐん)東北部にあった鴛鴨城(おしかもじょう)。いまは鴛鴨城址のいしぶみがたっとって、つぎのとおりかいてある。
鴛鴨城址|愛知県
徳川和泉守信光在岩津隔矢矧川築城于鴛鴨使其子宮内少輔親光居焉称之鴛鴨松平所謂
十八松平之一也親光子中務少輔親康孫宮内少輔親久相継居之永禄四年依徳川家康之命
従酒井雅楽助正親移于西尾従遂為廃城今当大典郷民相謀建碑表之
大正四年十一月|親光十五代孫松平親康書
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(さんこう)
- 三河鴛鴨城 - 城郭放浪記
- 鴛鴨松平家の拠点鴛鴨城|三河国史跡探索
- 鴛鴨の歴史は古く、縄文時代から集落がある地区です。鴛鴨町の周辺には縄文から弥生時代にかけての遺跡や古墳が集中的に分布しております。
- 鴛鴨(当時は押鴨)の地が公文書に出たのは奈良時代であったそうです。
- 地名の由来は諸説様々ありまして、「持統天皇が鴛鴨の地を訪れた際に2羽の鴨を見て感動して名づけた」と言う説、「鴛や鴨が多く生息しとった」とする説、「鴨部の居住」説などがあり、詳しくは判らんそうです。
- 信光がこの地に城を築城した背景には、挙母(衣)一体に対する防衛拠点と補給中継点を築く目的があったと思われます。
- 信光は鴛鴨城を息子の親光に与えて守備させました。ここで松平親光を祖とする鴛鴨松平家が分派しました。
- 鴛鴨城は、初代親光 → 二代親康 → 三代親久 → 四代忠久と続きました。
- 忠久の時代に起きた三河一向一揆の騒乱の時には、一揆側の上野上村城の酒井将監忠尚に対して、徳川家康は鴛鴨城、隣松寺を拠点に一揆勢と戦闘し、勝利を得ております。その時には鴛鴨城はとても重要な拠点として機能し、鴛鴨松平家の奮戦が勝利を導いたと言っても過言ではありません。
- 一揆平定后は鴛鴨城は西尾城配下となり廃城となりました。
- 鴛鴨松平家の子孫は大名にならず、姫路藩の重臣や西尾藩の重臣になったそうです。
- その后、碧海郡鴛鴨村は岡崎藩(愛知県岡崎市)、重原藩(愛知県知立市、刈谷市)、大多喜藩(千葉県)、菊間藩(千葉県)、沼津藩(静岡県沼津市)、幕府領などの給地となりました。
- 鴛鴨城址のいしぶみ