古代中世期の高岡
- 高岡地区の古代の遺跡は、東山遺跡(生駒町東山)、駒場貝塚(駒場町南屋敷)がしれるが、かくにんされとらんだけでさらにおおくの遺跡があったと推定される。前林町の水神社、八幡山、上平地付近で縄文時代の石器が発見されとる。
(『堤誌』)- 堤本町根岸には城塚古墳があるが、この古墳のぬしが支配した集落が付近にあったはずである。
- 律令制下では、三河国には7郡がおかれとったが、碧海郡(あおみぐん)には智立郷、采女郷(うねめごう)、刑部郷(おさかべごう)、依網郷(やさみごう)鷲取郷(わしとりごう)など15郷があった。このうち八橋付近のむらは采女郷とされとる。
(『三河国古墳考』)- 中世期になると各地に荘園ができるが、高岡は重原荘の一部であった。若林郷、竹村郷、小浜郷などの地名がしれる。鎌倉時代、各地から鎌倉へむかうみちとしられる鎌倉街道は、鳴海~二村山~境~駒場~八橋~矢作ととおっとる。こうした街道は、中央文化をこの地方へつたえるやくめもはたしたであろう。駒場町につたわる無形文化財「銭太鼓」など、こうした文化のひとつとかんがえれる。
〔2021年3月ここのか訪問〕