東海道山中宿にしはずれに説明がきのかんばんがたっとって、つぎのようにかいてある。
これよりにし、藤川宿へ|これよりひがし、赤坂宿へ
【東海道】
1601年、徳川家康は、東海道の各宿に伝馬朱印状と伝馬定書を発給し、江戸と京都、大阪をむすぶ東西交通路の確保をはかりました。
1603年、家康が征夷大将軍に任じられると江戸に幕府をひらき、江戸を政治、軍事の中心に位置づけ、江戸日本橋を起点に一里塚をきずき、幕府の直轄交通路として整備しました。古代、中世の駅馬、伝馬制度にならい、公用のひとや物資は無料、公用以外は有料でつぎの宿駅までつぎおくる宿駅伝馬制度をさだめ、全国的な交通制度に統一しました。
東海道には53の宿駅がもうけられ、みちはばはおよそ3間半(6.3メートル)で一里塚やなみきが整備されました。
【舞木町の由来】
舞木の地名は、山中八幡神官記の一節に、「文武天皇(697~707)のころ、くものなかより神樹の一片が、神霊をのせてまいおりる」とかいてあるところから、「きがまいおりる」をとって「舞木」とつけたといわれます。また舞木村は、むかしは山中郷に属しておりましたが、1648年に幕府の三河代官がおなじ山中郷で隣村である市場村の一部68戸を藤川宿へ移転させたため、むかしの市場村の一部と舞木村が合併して、現在の舞木町になったといわれております。
2003年3月
〔2021年7月19日訪問〕