『丹波亀山城あと、大本天恩郷』の説明がき

2020年9月15日、亀岡を訪問。亀岡市立図書館から内丸町商店街をみなみにちょこっとあるいていって、ひがしにはいりこんだとこに丹波亀山城あとへのいりぐちがあって、ほのわきに『丹波亀山城あと、大本天恩郷』の説明がきを発見。

2020.9.15 (62) 丹波亀山城にしいりぐち - 説明がき 1600-1500

丹波亀山城あと、大本天恩郷

亀山城は、1577年から1579年明智光秀による築城にはじまり、おおきく3期にわけ完成した近世平城(ひらじろ)です。

第1期は、光秀の丹波攻略の拠点で、近世城郭の先駆的なもんとしてきずかれました。3層の天守をそなえとったとつたえれらておりますが、詳細は不明です。

第2期は、豊臣秀吉支配下にあった時期で、城下町整備を中心とした小早川秀秋による築城整備です。

第3期はもっとも大規模なもんで、岡部長盛(おかべながもり)亀山藩主のとき、大阪城の包囲網として西国大名の夫役(ぶやく)による天下普請で完成し、1878年の廃城令で解体されるまでほの雄姿をほこりました。

1919年、荒廃しとったしろあとを、教団「大本」がかいとりいしがきをつみなおし、「天恩郷(てんおんきょう)」として神苑整備されました。1935年の大本弾圧事件で廃墟と化しましたが、戦后同教団によって復興され、しろあとのたたずまいとしてのこるいしがきと清閑なもりは、往時のすがたをしのばせてくれます。

【見学希望のかた】
いしがきの見学をご希望のかたは、大本本部「うけつけ」まで、おもうしでください。

ひとくちコラム
天下普請で完成した亀山城は、おおくの西国大名が夫役として動員されました。ほのことをしめすもんとして、いしがきを丹念にみてみると、55か所にわたり、17種類の刻印にみることができます。いしがき普請を担当した諸大名が、ほのいしの運搬を担当したことをしめすためにきざんだもんです。

ただし、しんがたコロナウイルスさわぎのため、しろあと見学はいっさいおことわりってことだった。