北国脇往還の説明がき

2022.4.22 (53) 小谷城 - 大谷市場あとのいしぶみ 1980-1480
2022.4.22 (54) 「北国脇往還と大谷市場」 2000-1500

近江のくには郡上のごうのはずれに、大谷市場あとのいしぶみと北国脇往還郡上宿のかんばん、説明がきがある。

北国脇往還(ほっこくわきおうかん)

  • 北国脇往還木之本宿で北国街道から分岐し、美濃のくに関ケ原中山道に合流する街道である。ほの経路は現在の国道365号線にほぼそっとるけど、国道によってみちが拡幅され街道のおもかげがのこらんか所もおおく、またさいきん圃場整備により旧道が消滅しとるばしょもおおい。この小谷地区においても、伊部、郡上の集落内については旧道がたもたれるけど、集落外については国道と重複しおもかげをとどめん。
    2022.4.22 (54-1) 「北国脇往還と大谷市場」 - 文章 1520-1420
  • 北国脇往還は、小谷城下を通過する主要街道として、戦国時代にもおおくの武将たちがいききした。美濃のくに岐阜を本拠としとった織田信長のいもうとおいちが、小谷城浅井長政のもとへこしいれしたさいにも、この街道が使用されたってみられ、また信長が小谷城攻撃のためにたどった経路もこのみちである。
  • 江戸時代においては、北陸と東海、関東をむすぶ最短路として、北陸とくに越前のくにの諸藩の参勤交代経路としておおく利用された。北国脇往還を使用した大名は、越前のくにの福井藩鯖江藩、丸岡藩、大野藩、勝山藩、ほれに若狭のくにの小浜藩などであった。大名以外にも、松尾芭蕉は『おくのほそみち』のたびのとちゅう、この街道をとおった可能性がたかく、にほん地図を作成したことでしられる伊能忠敬も、この街道を測量しつつ越前、加賀へむかった。
    2022.4.22 (54-2) 「北国脇往還と大谷市場」 - えず 1420-1450
  • なお、このみちを「脇往還」とよぶようになったのは明治中期以降であり、ほれ以前は「北国海道」って記述され、長浜町をとおる北国街道と、名称上は区別がなかった。

大谷市場(おおたにいちば)

  • 小谷城下の中心どおり、本町のにしに平行してのびたとおりで、じょうかまち時代には、本町同様にりょうがわまちが展開したって推定できる。長浜城下の「大谷市場町」は、この「大谷市場」をうつしたまちって伝承する。

〔2022年4月22日訪問〕