引間城本丸あと説明がき

2020.6.4 (32) 元城町東照宮 - 引間城本丸あと説明がき 2400-1800

引間城本丸あと

鎌倉時代の浜松は「ひきま(ひくま)」とよばれるまちでした。現在の馬込川(まごめがわ)天竜川の本流にあたり、西岸に町屋(まちや)が発達しました。「船越」や「早馬(はやうま)」はこのころの地名です。

戦国時代、このまちをみおろすおかのうえに引間城がきずかれます。歴代の城主には、尾張の斯波(しば)かたの巨海(こみ)氏、大河内氏、駿河の今川がたの飯尾(いのお)氏などがおり、斯波氏と今川氏の抗争のなかで、戦略上の拠点となっていきました。この時代の浜松には、おんなじ今川がたで、少年時代の豊臣秀吉がはじめてつかえた松下加兵衛(まつしたかへえ)(頭陀寺城(ずだじじょう)城主)がおりました。松下氏につれられて、秀吉は引間城をおとずれております

徳川家康がさいしょに居城としたのもこのしろです。1572年12月、武田信玄との三方ケ原のたたかいに、家康は「浜松から撤退するくらいなら武士をやめる」というつよい覚悟でのぞみましたが、引間城のきたぐちにあたる「玄黙口(げんもくぐち)(元目口)」へ撤退したといわれております。このころまで引間城が重要な拠点だったことがわかります。

その后、城主となった豊臣系の堀尾吉晴(ほりおよしはる)以降、浜松城の増改築がすすむにつれ、引間城はしろの主要部からはずれ、「古城」とよばれてこめぐらなどにつかわれておりました。1886年、旧幕臣井上延陵(いのうええんりょう)が本丸あとに家康を祭神とする元城町東照宮を勧請し、境内となっております。

2015年1月

監修:静岡文化芸術大学磯田道史教授

2020.6.4 (32-1) 元城町東照宮 - 引間城本丸あと地図 715-865

〔2020年6月よっか訪問〕