「近世加納城・じょうかまちのたんじょう」

中山道加納宿まちづくり交流センターに「近世加納城・じょうかまちのたんじょう」って展示資料があって、つぎのようにかいてある。

近世加納城・じょうかまちのたんじょう
家康はなぜ加納をえらび、しろとまちはどのようにきずかれたか?

  • 1600年の関ケ原合戦に勝利した徳川家康はこの地にあらたなしろを建設します。1500年代末の加納には東西道路(のちの中山道や南北道路(のちのおすし街道)がとおり、交差点付近には広江(ひろえ)沓井(くつい)などのむらと「加納町」があったと推定されます。ほいで、ほのみなみには守護代斎藤氏の中世加納城のほり、土塁がのこっておりました。幹線道路やまちが機能し、しろあとがのこされとった加納は、西国豊臣系大名へのおさえとして短期間でしろとまちを建設することができる稀有な土地でした。
    2022.5.17 (48-2) まちづくり交流センター - 近世加納城のたんじょう 1840-1150
  • 近世加納城の本丸や二の丸は、中世加納城とほの武家屋敷の地形を利用してきずかれ、きたがわおよびにしがわに武家屋敷が配置されました。まちの中心部分は、旧来の集落および岐阜町出身の有力者などにより建設されたとつたえられております。沓井にあった加納天満宮を現在地に遷座し総鎮守とし、東西みちのひがしはしに加納八幡神社 *1を勧請しております。また初代藩主奥平信昌の菩提寺盛徳寺(せいとくじ)をしろの西部に、伸昌つまで家康長女亀姫(かめひめ)の菩提寺光国寺(こうこくじ)を城下北部にたてるとともに、東西みちにそってあらたなやっつの寺院が集中的に配置されました。
    2022.5.17 (48-1) 近世加納城築城まえの景観推定図 1490-1190

(※ 地図は近世加納城築城まえの景観推定図(一部寺社は地名から推定))

〔2022年5月17日訪問〕


*1:展示資料には加納天満宮ってかいてあったけど、加納八幡神社のまちがい(※ 2022年8月みっか、岐阜市文化財保護課いかわさんにかくにんした)。