万場のわたしの説明がきと万場宿の説明がき

2022.9.1 (36) 万場 - 秋葉社 1990-1490

万場大橋にしづめのみなみ、堤防道路のそとがわに秋葉社があって、ほのわきに万場のわたしの説明がきと万場宿の説明がきがある。

佐屋街道万場の渡し(まんばのわたし)
〔中川まちなか博物館〕

 

  • 佐屋街道は、熱田から岩塚、万場、神守佐屋を経て桑名へ渡る陸路6里、海路3里の行程で、江戸時代の東海道脇街道として大変賑わった。熱田(宮)から海路桑名へ渡る「七里の渡し」が一般的だったが、風雨による欠航や船酔いを避け、陸路を望む人たちも多かった。
  • 尾張名所図会の川舟には多くの人、荷物や馬までが乗っており、昼夜を分かたず渡船することができたが、渇水の時期には歩いて川越えができても許されておらんかった。舟賃は1人1文、中水のとき3文、大水のとき8文、荷物も5文、10文と区分されておった。(「尾州領郷帳」他参照)
    2022.9.1 (34) 万場のわたし - 説明がき 2410-1780
  • 万場宿には本陣と問屋とを兼ねた家もあって、やや宿場としての体裁をたもっておったが、1ヶ月のうち上15日は万場宿でつとめ、下15日は岩塚宿でつとめる慣行で、万場の渡しは万場宿が管理しておった。渡しの痕跡として秋葉社の南に常夜灯が残っておる。
    2022.9.1 (34-1) 万場のわたし - 説明がき 620-690

2014年3月|名古屋市

庄内川堤防(当時の渡し場付近、左の地図(1))から岩塚宿方向を望む|都市センター提供〕
尾張名所図会「万場川船渡」|都市センター提供|原本を一部加工、着色しております。〕
〔万場の町並み|『佐屋海道図会』写本より|江戸時代末期|奥村定氏所蔵のものを名古屋市謄写|名古屋市鶴舞中央図書館所蔵〕
〔今と昔の万場宿|「富田のあゆみ」富田地区名古屋市合併30周年記念事業実行委員会編集より|一部改訂〕

万場宿跡

  • 万場宿は、佐屋街道「万場ノ渡」をはさみ、岩塚宿(中村区)と向いあって、1634年、御伝馬所(ごてんまじょ)に指定され宿場が置かれた。
  • この両宿場は近距離にあったため、制度上は一宿と見なされ、月の上半月を万場宿が、下半月を岩塚宿が交代で人馬継立(じんばつぎたて)の役務を行なった。1872年、御伝馬所は廃止された。
  • なお、この地にある秋葉神社は、以前、100メートルほど南の万場宿の東端にあり、その下に渡し場もあった。
    2022.9.1 (35) 万場宿あと - 説明がき 2000-1500

名古屋市教育委員会

〔2022年9月ついたち訪問〕