佐屋街道と日光橋

2023.2.3 (54) 佐屋路 - 旧日光橋おやばしら 1980-1480

佐屋路(さやじ)は日光橋のにしづめに旧日光橋のおやばしらがおいてあって、愛知県海部建設事務所がたてた説明がきにつぎのようにかいてある。

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佐屋街道と日光橋

2023.2.3 (55) 佐屋路 - 「佐屋街道と日光橋」 2420-1800

東海道佐屋街道

江戸(現在の東京都)と京都を結ぶ東海道は、熱田宿から船で桑名までの海路を使う七里の渡しが主街道でありましたが、風雨が強く波が荒れた時などは舟を出せん場合があり、大名行列などのように海路が無理な場合もあって、船路の危険や船酔いを避けて陸路を望む旅人が少なくありませんでした。

このような事情を背景に、東海道脇街道として開かれたのが佐屋街道でありました。

東海道の七里の渡しに代わる重要な陸路として天下に知られるようになったのは、大坂の陣1615年徳川家康公の通行路となってからであり、これが整備され天下の大道となったのは、徳川三代将軍家光公の上洛(1634年)のときといわれております。

日光橋の変遷

日光橋は、江戸(東京)と京都を結ぶ東海道脇街道として開かれた佐屋街道にありました。この日光橋に関する文献としては、江戸時代の「尾張名所図会」に「頗る大河にして、佐屋街道には大橋を架す、下流に百町、鹿伏兎、観音寺、大海用等の渡船あり」と紹介されております。

また、この佐屋街道は、大坂の陣(1615年)の徳川家康公の通行路であり、徳川三代将軍家光公の上洛の道で、東海道の七里の渡しに代わる陸路として、整備されました。

このような数々の歴史に登場する街道の日光橋は、 2008年に新たな橋に生まれ変わりました。

旧日光橋の基礎杭

改築前の日光橋は、1934年に築造された5径間ゲルバー式鋼鈑桁橋で、1967年に歩道部分が併設されました。この旧橋車道部の下部工を撤去したところ、長さ5m、径25cmの松杭が計310本基礎杭として使われておりました。約70年間ほぼ原形に近い形で、朽ちること無く基礎としての役割を果たしとったのです。

愛知県海部建設事務所

〔2023年2月みっか訪問〕


【佐屋路をにしじょうから神守宿、埋田おいわけまで】