明治用水 - 明治用水史誌編纂委員会

明治用水

1953年3月31日発行
明治用水史誌編纂委員会代表岡田庄太郎

第2章 用水の完成
第1 明治、枝下両用水の成立(112、113ページ)
  • ようやく手がつけられようとしとった。7か村悪水計画の起因となった水害地にたいしても、矢作川の二重堤防が増築されて、その被害を少なくしとった。これらの工事にもかならの反対や困難があったと思われるが、県庁は強い力をもって着着と遂行していった。この新水路開削工事にも、県庁は強硬な態度をもってかなり思いきった措置をとった。県庁の決意の前には、岡本、伊予田らが黒川の指示によって各村に約束した32か条の工事施行方法でさえも、実際の工事を拘束するものとはなりえんかった。
  • 32か条の工事施行では、取入口から現在の東、中両井筋(当時東用水路、西用水路と呼ばれとった)の分岐点までは水路幅3間としてあったが、実際には幅4間の水路が掘られていった。また、鴛鴨村を通る箇所はもっとも問題になったのであり、岡本はこの村の反対によって水路を末野原を通すことに譲歩し、そのためにいっそうの難工事が予想されとったのであるが、県庁はその反対を無視して、工事着手のときには、水路はふたたび部落のなかを通ることになった。もちろん鴛鴨村では異議を申し立てたが、県庁はそれには耳をかさんで工事を進めてしまった。
  • 鴛鴨村から永覚新郷(えかくしんごう)にかかる付近は、それでもなお、技術的にもかなりの難工事の場所であった。ここは低い田がある谷間であったから、取入口からずっと下流までの水路を考えると、用水路の水位は付近の土地より24尺もたかくせにゃならんかった。そこで、この低地120間ほどの間には、上幅18間、下幅30間、高さ4間の土を盛り、その上になお高さ8尺、幅4間の小段を築き、そこにはじめて水路をつくったのである。これに反して、そのすこし南の上野村(うえのむら)から広畔新郷(ひろくてしんごう)にいたる一帯は、地形が高くて水路を掘るだけで堤防も不要なところが多かったから、水路を掘った土を鴛鴨付近の盛土に利用した。
  • 県庁のきわめて積極的な態度は、このような難工事をも急速になしとげた。1879年の3月には、すでに大浜茶屋村まで、すなわち現在の明治本流筋の掘割が終わっとった。この間に取入口の元圦樋門も設置されたが、農繁期となって工事に出る人夫の都合もあり、しばらくの間、水路工事は進捗せんかった。この年の残りの期間には、ただ取入口付近で導水堤や砂吐門の新設工事がおこなわれたにとどまった。
  • 1880年1月、冬にはいって人夫が大勢出られるようになってから、現在の中井筋、東井筋の掘割が始められた。ここでも、県庁は従来の約束などは無視して果敢に工事を進めた。とくに、中井筋は昔からこの用水計画に反対してきた村村にかかる部分が多く、工事中にもいくつかの問題がおきたが、それは県庁が進める工事に支障を及ぼすものではなかった。たとえば、工事が約束とちがう設計で実施されるのを知った高棚村の総代は、1879年11月、土木係官員の派出先に約束のように工事を実施するよう願い出たが、県庁側では、今度の工事は県庁の手によるものであるから、以前の約束は無効であるとしりぞけてしまった。翌年1月、いよいよ工事にかかるときでも、この村では、新しい工事法によると村内の耕地が水路をへだてて飛地になるし、水路幅も広くて潰地がふえるから、約束どおりの工事にしてもらいたいとふたたび願い出た。現在の中井筋でも、先の32か条では幅2間となっとったのに、実際は幅4間の水路がつくられたのである。しかし、県庁はこの高棚村の
    2021.9.1 明治用水資料 (2) 明治用水 1620-1200

2021年9月ついたち、水のかんきょう学習館を訪問。明治用水土地改良区OBの田中さん、館員の織田さんから葭池樋門(よしいけひもん)についての説明をうけるなかで、この資料もいただいた。