「明治用水ふなとおし」説明がき

2021.9.20 (13) 矢作川東岸 - 「明治用水ふなとおし」 1980-1480

矢作川(やはぎがわ)は水源橋のちょっときた、東岸にある小公園の一角に、山室を愛する会のたてた「明治用水ふなとおし」説明がきのかんばんがあって、つぎのようにかいてある。

明治用水ふなとおし

  • 陸上交通が発達するまでは、矢作川は物資輸送の大動脈で、当時、数十隻(すうじゅっせき)のかわぶねによって海産物、いたるい(板類)、薪炭(しんたん)などがはこばれ、木材やたけはいかだにくまれておくられていきました。
  • 1880年明治用水ができて、配水量がふえてくると夏季の取水時はかわぶねやいかだがとおるせきのきれめもしめきられました。このため、1884年に木製のふなとおしがつくられました。1901年に横断堰堤(おうだんえんてい/旧頭首工)となりましたが、堰堤工事が難航し、ふなとおし閘門(こうもん)が築造されたのは、1906年になってからでした。
  • 旧頭首工の中央部には、はば5間のいかだとおしがありましたが、おもいきのいかだやつくりのよわいいかだはふなとおしを利用しておりました。
  • ふねやいかだがふなとおしを通過するには、いったん、上下流のとびらをしめ、水位を調整する必要があり、1時間ほどかかりました。また、水源から河口までくだるのに1日、のぼるのに2、3日を要しておりました。
  • こうした船頭さんたちのまち時間や宿泊の利便をはかるため、ふなとおしのちかくにみせや旅館ができました。杉浦坂治郎さんは、1904年から1918年ごろまで日用品の販売や旅館をかねた「明治館」をひらいておりました。明治館がとじるころ、宇野重一さんが「見晴屋(みはらしや)」を、市川徳三郎さんが「入船館(いりふねかん)」を開店されました。入船館は現在も水源橋のたもとのあります。
  • 矢作川のふなうん(舟運)は1929年の越戸ダムの完成により、水量が減少し、消滅しました。また、むかいの県道ぞいのたかだいには船頭さんたちの安全や繁栄を祈願した「大神宮」があります。
    2021.9.20 (13-1) 矢作川東岸 - 「明治用水ふなとおし」 1900-1380

2011年12月吉日
山室を愛する会

〔2021年9月はつか訪問〕