地域をひらいて1世紀=明治用水 - 毎日新聞社

「地域をひらいて1世紀=明治用水

1980年4月30日発行
毎日新聞社

  • 着工のためにははんたい農民の説得が前提だった。まずしくとも不毛の台地になれきったひとびとは、この荒野が美田になるって宣伝するふたりを「やまし」ってののしって、なによりも矢作川のみずがはしや洪水になることをおそれた。岡本は、ほうした農民の不安を一掃するため1876年「新用水路工事法約定32か条」をつくった。
    • 第1条)加茂郡今村用水引入口之義ハ、高4尺横2間中柱1本通之石圦樋門ヲ築キ、矢作川5尺以上出水節ハ戸前締切候事(用水の水源はたかさ1.2メートル、はば3.6メートル、なかばしらを1本とおしたいしづくりの樋門(ひもん)をきずき、矢作川の水位が1.5メートル以上になるとしめきります)
    • 第3条)渡刈村地内字末野ケ原東口ニ於テ2番圦ヲ築キ、矢作川洪水ニテ万一第1条圦樋破壊スルトモ、此樋ニ於テ締切、決テ用水川下村々ノ水害不相成様可仕事(豊田市渡刈、末野ケ原に2番めのせきをきずく。だから矢作川の1番のせきがやぶれてもここでくいとめるで下流の水害のしんぱいありません)
    • 第16条)上村新郷地内水路地低之場所ハ堤防ヲ築キ、水溢無之様可仕事(豊田市上村新郷の低地には堤防をきずき、みずがあふれることのないようにします)
  • この「32条」ではんたいのこえはしだいに沈静化されたけど、最大の難関は資金の調達だった。
  • 工費は7万5千7百余円(当時と現在の米価で換算するとおよそ8億1千万円)の巨額。岡本、伊予田はすでに私財の大半をつぎこんどったため、出資をもとめることになったけど難航。伊与田は文字どおり東奔西走、名古屋の富商、伊藤次郎左衛門氏や薩摩の政商、五代友厚氏らに協力をもとめてまわった。このかん、県からは「資金調達ができんばあいは、事業を放棄し、県に一任せよ」の通知状が伊予田宅にまいこみ、いきづまった伊予田が投身自殺を決意するまでおいこまれた。
  • しかし、ときはふたりにみかたした。1877年の西南戦争后、米価がねあがりに転じる。こめの価値がみなおされると同時に、出資者もぼつぼつあつまるようになって、翌1878年11月末には「用水完成后は488ヘクタールのためいけしきちを出資者に無償配分する」ことで6人の出資者がきまる。
  • 岡本、伊予田のちのにじむ努力で着工の機は熟した。
22 着工
  • 「いよいよ用水をほりはじめるそうな」「弥厚のもくろみがほんとになったのう」。こんなはなしがむらからむらへかけめぐった。だが、会話のさいごにはかならず「やましのかんがえたことだで」「あてにはできん」とのささやきがきかれた。。。半信半疑の農民のきもちをよそに、工事は1879年1月、はじまった。弥厚翁の死から46年。「弥厚ぎつねのゆめものがたり」はいまや現実となったのである。
  • 工事は資本が民間、施行は県営というユニークな官民共同事業。とはいえ、主導権は県がにぎった。計画の発起人である岡本兵松、伊予田与八郎でさえ、工事げんばの一職員としてあつかわれた。
  • 当初計画も県のペースでつぎつぎとてなおし。たとえば、取水口から東海道付近までの本流ははば3間の予定を4間にひろげたり、コースの変更もしばしば。なかでも岡本計画の東井筋、伊予田計画の中井筋のほか、ほれまでの構想になかった西井筋もとちゅうで追加新設をきめるなどおおはばなてなおしも断行した。
    2021.9.1 明治用水資料 (3-2-1) 地域をひらいて1世紀 840-720
  • 工事は予想以上のペースですすんだけど、起伏のおおい台地上の用水開削には難所もおおかった。なかでも上郷村(いまの豊田市)の鴛鴨から永覚新郷へつうじるかんは最大の難関だった。ここは丘陵のたにになったながさ600メートルほどの低地。このため、はば50メートルもある堤防をきずいてたにをうめ、堤防上に水路をとおしたもんの、堤防はなんどもくずれ、思案にくれた。結局、堤防を二段式のつよい構造にしてなんとか地くずれをふせいだっていわれる。こうした作業の大半は各むらからえらばれたわかもんがあたったけど、きついしごとにねをあげるもんもおおかった。
    • 「わたしが20才か21才のころだった。午前7時半ごろからしごとにとりかかった。まだ台地はひえきっとる。だいたい10時ごろまでしごとをやり、ちゃのこ(べんとう)をとり、すこしやすんでほれから午后2時ごろにまためしで、すこしやすみ、ほれから」まっくらになるまではたらいた。もっこっていうもんでつちをはこんだ。くわもはばのひろいがんじょうなもんで1貫もあるおもいもんだった。1日」
  • 1879年3月。着工から2か月后にははやくも取水口から下流およそ10キロ間の水路開削をおわり、同年なつには一部の水田に試験通水。翌1880年5月には幹線水路のほりわり工事をすべて完了するスピード工事。県は完成した部分から通水をはじめ、1反につき2円の配水料を徴収して工費につぎこんだ。
23 通水
  • 「みずがくるげなぞ」。ついに、「ほのとき」がきた。みず不足にあえぎ、くるしみ、みずとのたたかいにあけくれた台地のひとびとにあたらしい時代がきた。ほれはまた、西三河によあけをつげる一瞬でもあった。むらびとたちは歓喜してみずをむかえた。
    2021.9.1 明治用水資料 (3-2-2) 地域をひらいて1世紀 540-1010
  • 「むらじゅうのひとたちはみずがくるそうだっておおさわぎして曲尺手(かねんて/あんじょうし池浦町のあざ)」のほうにはしっていった。用水はいまよりずっとほそいかわで、小松原をほったあかいつちでどてができとった。おおぜいのひとびとがあるまってみとるうちに用水のかみのほうからへびがはうように、のろのろとかわぞこをあかいどろみずがながれ
    2021.9.1 明治用水資料 (3-1) 地域をひらいて1世紀 1560-1210
    2021.9.1 明治用水資料 (3-2) 地域をひらいて1世紀 1720-1320

2021年9月ついたち、水のかんきょう学習館を訪問。明治用水土地改良区OBの田中さん、館員の織田さんから葭池樋門(よしいけひもん)についての説明をうけるなかで、この資料もいただいた。