平将門のたたり

2021年5月26日、かわら美術館で開催のうきよえとにほんが展に、『平将門のたたり!?』って文章をみた。

平将門のたたり!?

平安時代后期、地方行政はそれぞれの国司(こくし)にまかされておりましたが、治安が悪化したため、軍事力で治安をまもるための武士があらわれました。

平将門(たいらのまさかど)の祖父は、上総(かずさ)のくにの国司として赴任し、勢力を拡大しましたが、将門のちちの死后、相続あらそいが勃発します。勝利した将門は、みずからを「新皇(しんのう)」と称してあらたな皇位につき、朝廷と対立するようになりました。しかし、2か月で追討軍の攻撃をうけてほろぼされてしまいました。たたかいにやぶれた将門は、いまの茨城県(いばらきけん)坂東市(ばんどうし)にある延命院(えんめいいん)に埋葬され、首級(しゅきゅう)は平安京にはこばれみやこおおじのかわらにさらされましたが、よるになると「胴体とくびをつないでもう一戦しよう!」とさけんだといわれ、みっかめに切断された胴体をもとめて、すうかしょにおちながら、故郷のあずまのくににむかってとんだとされております。ほの首級のおちた地で有名なのが、いまの東京都千代田区大手町にある「将門のくびづか」で、将門の怨念に関連する伝承がおおくあります。

  • 1300年代初頭、平将門のたたりといわれた疫病が流行し、「将門のくびづか」のちかくにあった神田明神が将門の霊を供養し疫病が沈静化した
  • 関東大震災で全焼した大蔵省庁舎の再建のため、くびづかをこわしてかり庁舎を建設したところ、大蔵大臣をはじめ関係者14名がなくなり、おおくのけがにん、病人が続出したことからかり庁舎はとりこわされた。
  • 戦后、アメリカ軍がくびづかをとりこわしはじめたところ、墓石(ぼせき)らしいあとのまえで重機が横転し、運転手がなくなり工事を中止した。
  • 昭和時代、くびづかの一部が売却され、日本長期信用銀行をたてたところ、くびづかにめんした席の行員がつぎつぎに病気になり、おはらいをした。

現在でも隣接するビルはくびづかにしりをむけたり、みおろしたりするようなことのないような設計や配置にされとるといわれております。また、明治天皇行幸(ぎょうこう)するさい、朝廷にそむいた将門は祭神(さいじん)からはずされましたが、1984年に祭神として復帰したことから、栄転や出世のご利益があるとされております。

2021.5.26 (14) かわら美術館 - 『平将門のたたり!?』 1120-1730

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(さんこう)