殿橋(とのばし)みなみづめから菅生川南岸堤防をちょこっとにし、しもにいって、みなみがわにおりたとこに、三郡輪中治水碑がある。このあたりの菅生川南岸堤防を六名堤(むつなてい)っていうだけど、ほれが1882年の豪雨でここ久后崎(くごさき)の地できれて、額田郡から碧海郡、幡豆郡の3郡69か村で死者43名、浸水家屋2,000あまりっていうおおきな被害がでた。ほのあとはじまった堤防改修工事が完成したのが1885年。この工事をはじめとしてこの地域一帯でおこなわれた治水事業の経過を、4,000文字の漢文でしるしたのがこの三郡輪中治水碑だ。
うらめん
うらめんには69か村のなまえとそれぞれの戸長のなまえがしるされとる。
(額田郡)
祐金町、唐沢町、六地蔵町、康生町、菅生村、上六名村、六名村、戸崎村、羽根村、若松村、針崎村、福岡村、上地村、坂崎村、高力村北鷲田村、菱池村、明大寺村、久后崎村、柱村
(幡豆郡)
六栗村、野場村、?村、上羽角村、下羽角村、貝吹村、上永良村、下永良村、高落村、新村、東浅井村、西浅井村、小島村、?村、家武村、米野村、室村、善明村、?村、尾花村
(碧海郡)
赤渋村、土井村、牧御堂村、法性寺村、中之郷村、国正村、中村、定国村、正名村、上三ツ木村、下三ツ木村、坂左右村、下和田村、野畑村、井内村、宮地村、上和田村、下青野村、高橋村、合歓木村、上青野村、在家村、、、こっからよみとれん
◇ ◇
六名堤から久后ぎれのいしぶみをみおろしたとこ。ひだりにあるのが三郡輪中治水碑で、みぎにあるのは久后ぎれのいしぶみ。
〔2021年6月28日訪問〕
(さんこう)
- 岡崎市内をぶらり - 愛知登文会建物特別公開2017 ~ その74:西三河|2017年10月07日
- 歴史災害探索まちあるきガイドその3歴史災害探索 - 岡崎市|2017年年2月
- 久后崎(久后ぎれの石碑)
久后崎の地は古くから「流れ久后」と呼ばれ、人々は家を建てることを避けてきました。また、ここは岡崎城の対岸に位置しており、城を水害から守るため堤防が低く設定された、「越流堤(えつりゅうてい/乗越堤)」でした。1882年の豪雨で、堤防が決壊し43名の犠牲者が出ます。これを機に堤防は本格的な改修が行われ、1885年に完成します。「三郡輪中治水碑」は当時の治水工事の様子を漢文で今に伝えております。また、隣には43名の犠牲者の名前が記された「溺死者追悼碑」が建てられております。
- 久后崎(久后ぎれの石碑)
- 三郡輪中治水碑 - みてみよう!歴史災害記録と旬のあいち|vol.31|2016年11月
- 三郡輪中治水碑
所在地:岡崎市久后崎町字堤下
交通:名鉄名古屋本線「東岡崎」駅西およそ600m - 1882年9月30日、朝から盆を返したような豪雨が続き、翌10月1日の夜、40~50間(およそ80~90m)にわたって久后崎の堤防が決壊しました。后に「久后切れ」と呼ばれるこの災害では、およそ3,000ha(岡崎公園のおよそ300倍の面積)が浸水し、43名が犠牲となるなど、多くの方が被害を受けました。被害は下流の碧海郡・幡豆郡・額田郡の3郡69か村に及んでおり、岡崎市史には当時の状況が書き記されております。
- 一.本村にて救助せられたるものあり。三島村大字久后崎(当時流れ久后とて里人久しく家屋を立てることを厭ひし所)大浜屋夫婦流木にすがりて野畑東に来り助けを呼ぶ。堺弥市氏流れに従って之れを追ひ、字森越の堤防切の場所より西へ流れ入りたる時裸体となりて飛び込み其の夫を救助したり。妻は額田郡若松村に於て救助船によりて助け上げられたり。(以下、人命救助の賞状)1882年10月1日夜男川洪水堤防決潰住家流亡水中に浮沈、死に瀕する牧仙太郎なる者を認め危難を冒し遊泳救助候段奇特につき其の賞金として1円50銭下賜候事。
(久后崎地域は「流れ久后」と呼ばれており、家屋を建てることを戒められとった。(久后切れのときには)この久后崎地域に住んどった夫婦が川に流され、濁流に流されたが、堺弥市という者が川に飛び込み、夫を救助し、妻はのちに救助船により救助された。堺氏には救助の賞状が贈られ、賞金が与えられた) - また、堤防の復旧に関して、次のような記載もあります。
- 一.此の澪止(みおどめ)は翌日直ちに開始、水下各村より屈強の者を選抜して柱を切りて水中に立て近所の立樹幾百本となく切倒して投げ入れ土俵と共に之をしづめ、3日目の夜明には竣功せり。幸にして1日より晴天となりしを以て工事の作業には大いに便宜を得たりしといふ。
(決壊した堤防の澪止め作業は、翌日から始められた。各村から選抜された工夫は数百本の樹木を土嚢とともに敷き詰める作業を行い、天候の后押しもあり3日目の夜明けには竣工した) - その后、この決壊を契機として抜本的な築堤工事が始まり、1885年に本格的な堤防が竣工しました。「三郡輪中治水碑」は、当時の治水工事の様子をおよそ4,000字の漢文により今に伝えております。また、その横には、久后切れによる犠牲者の名前が記された溺死者追悼碑が建てられております。
- 碑は今でも地元住民により清掃されており、いつ訪れても生花が手向けられております。こうして、先祖が体験したつらい経験を后世に伝えるために建てられた碑を大切に守り続けることは、先祖の方々の思いを大切に守り続け、教訓を活かすことにつながっていくのです。
- 災害にまつわる碑や史跡には、実際にその地域で起こったことが記録されとるだけでなく、当時の人たちの思い(二度と被害を繰り返さんように、など)が込められております。碑や史跡の前では、災害が実際にこの地域で起こるということを実感していただくとともに、そうした先人たちの声に耳を傾け思いを巡らせ、身の回りの備えにつなげ、これからの防災に活かしてください。
- 三郡輪中治水碑
- 矢作川中流域の治水 - 碑文をてがかりに出版岡崎の渋谷さん|東海愛知新聞 - 2005.10.4|エフエムEGAO
- 岡崎市大幡町の元中学校長・渋谷環さんが、『碑は語る―岡崎平野の治水と農業』(B5判・191ページ)を出版した。1882年に起きた岡崎市久后崎町地内の乙川左岸堤防決壊(俗称「久后切れ」「三島切れ」)后の治水事業の経過を記した「三郡輪中治水碑」をはじめ、旧額田・碧海・幡豆三郡に残る治水、土地改良にかかわる碑の撰文を手がかりに矢作川中流域の治水や農業の歴史をまとめた。
- 「久后切れ」あるいは「三島切れ」と呼ばれる災害は1882年10月1日、岡崎市久后崎町字本郷の乙川左岸堤防が8、90メートルにわたって決壊し、「額田郡乙川以南17村、碧海郡矢作川以東26村、幡豆郡矢作古川以東26村」(三郡輪中治水碑)の合わせて69カ村が被害を受けた。
- 現在の岡崎市六名・福岡・六ツ美地区、幸田町菱池地区、西尾市三和地区が浸水したことになる。
- この災害を教訓に愛知県の主管によって、乙川、矢作川、矢作古川、広田川、安藤川、占部川、須美川などの改修、菱池の排水改良が行われ、災害の防止はもちろん農業の振興にも役立ったと碑に記されとる。
- 同碑は、高さおよそ3メートル、横1.5メートル、厚さ0.5メートルの花崗岩でできており、漢字およそ4,000字を使った漢文が刻まれている。
- 隣り合って、「南無阿弥陀仏」と彫られた溺死者追悼碑があり、碑の裏には亡くなった45人(※ 43人のまちがいか)の氏名を読むことができる。
- 失われた碑の上半分
「久后切れ」后の治水事業では、矢作川左岸の旧額田郡六名村から旧幡豆郡小島村までの堤防補強工事も行われた。 - それに伴って右岸の補強工事も行われた。この工事の経過を記した碑「矢作川堤塘記念碑」が、岡崎市矢作町宝珠庵の矢作神社東の堤防に置かれとる。建立時は矢作橋のたもとにあった。
- この碑は現在、上半分が行方不明で下の部分だけが残っとる。幸い大正時代の私家版『矢作町誌』に碑の全文が写されて遺っとる。
- 「碑文に、地元への負担があまりにも重いため不満がおこり、一時工事が中断したことが書かれとるのは大変珍しい」と渋谷さんは不思議がっとる。
- 渋谷さんが調べた碑は20基を超す。「碑に向き合い碑文を読んどると、治水や農業開発に汗した先人の苦労や英知、后世への期待と願いが迫ってくる」と『あとがき』で結んどる。
- およそ4百冊を印刷。図書館、市民センター、先輩、知人などに配布したが、残部が若干ある。問い合わせは、渋谷さん(0564 - 48 - 2844)へ。