吉田城は黒鉄櫓(くろがねやぐら)のいりぐちをはいってすぐのとこに、吉田橋の説明がきがある。えは、吉田城の対岸から吉田橋をみたとこのえで、はしをわたったひだりがわに吉田城がみえる。ほれと、えのうえには、作家宮城谷昌光さんの小説の一部がつぎのとおり紹介されとる。
吉田橋
- ・・・とよがわの下流にのぞむ今橋は吉田ともよばれる。
- ・・・鎌倉時代のなかばにとよがわの河口ちかくにはしがかけられたので、今橋、とよばれつづけた地を、吉田、とよびかえた牧野氏は、自家の威勢とその地の私有を強調したかったにちがいなく、そとからそれをみとめるものは吉田とよび、みとめないものは今橋とよんだ。
というのがこの時期である。- ---今橋の牧野のうしろには、今川がいる。
すなわち松平清康が今橋城をせめるということは、今川にたたかいをいどむということである。今川氏は足利氏の親戚といってよいから、- ・・・松平清康のたたかいかたは電撃のようであるときく、西三河の過半を制したばかりの清康が、今川氏の傘下というべき東三河にふみこむのは、確実な勝算があってのこと、とみるべきである。
- たとえば、きたるべきたたかいで松平清康がかつとしよう。しかし、問題はそれからである。東三河の奪回にむけて今川氏が大軍を擁してうごけば、清康についたものはことごとくうたれるかもしれない。ほんとうの勝負はそこにある。
〔2021年4月ようか訪問〕