~桶狭間のたたかい~
戦国大名は戦乱のなかにあってたがいに全国統一をめざし、しのぎをけずっとった。相模の北条、越后の上杉、甲斐の武田、駿河、遠江、三河の今川、尾張の織田などなどが勢力をえて、つねに領土の拡大、天下支配の野望にもえとった。
今川義元は、およそ2万5,000人の軍勢をひきいて1560年5月12日に駿府(静岡)をしゅっぱつした。17日に岡崎へ、18日には沓掛城にはいり、尾張大攻撃の準備をした。織田信長は、5月19日未明清洲城出陣にさいし、幸若舞の敦盛をまい、馬上のひととなった。清洲をでるときは、主従わずかに6騎、とちゅうわのりをかけて人数をまち、熱田神宮に戦勝祈願をしたころは、1,000人あまりとなり、合戦のときには軍勢3,000人ほどになった。今川軍は、難なく丸根、鷲津をせめおとし、本陣は桶狭間のまつばやしに休憩して、戦況をききつつ昼食をとっとった。そのおり、天候が急変してゆうだちとなり、狼狽する義元勢をめがけ、太子ケ根に待機しとった信長は一挙に本陣めがけてきりこんだ。信長の家臣服部小平太が、やりで義元をさし、毛利新助がうしろからくみついてくびをとった。
このたたかいの死者は、今川軍2,500人、織田軍830人ほどで、要した時間は2時間という一瞬のできごとであった。
桶狭七石表(おけはざましちせきひょう)*1
桶狭間古戦場がどこであったかは異説があるが、今川義元勢2万5千、織田信長勢3千がいりみだれてたたかったのであるから、その戦場はかなり広範囲にわたっとったとかんがえられる。ここで問題なのは、義元の本陣、もっとせまくいえば義元戦死のばしょがどこかということで、それはこの七石表によってその戦死のばしょをしることができる。
1号碑は今川義元戦死のばしょ、2号碑は松井宗信戦死のばしょである。3号碑以下は義元の武将5人の戦死のばしょであり、氏名不詳である。そのいしぶみは、花崗岩の石柱で方15から18センチ、たかさおよそ120センチで、30センチほど土中にうめられとる。
進軍経路もあって、わかりやすい。
〔2020年9月21日訪問〕
*1:原文は「狭」が「峡」になっとる