名鉄名古屋本線中京競馬場前駅みなみぐちに『桶狭間古戦場伝説地』のかんばんがあって、つぎのようにかいてある。
くに指定史跡
桶狭間古戦場伝説地
桶狭間のたたかい
天下わけめといわれた関ヶ原のたたかい(1600年)からさかのぼること40年。にほんぢゅうが戦国大名どうしのたたかいにあけくれとった1560年、尾張(現在の愛知県西部)において、にほんの歴史にそのなをのこすたたかいがおきた。「桶狭間のたたかい」である。たたかったのは、当時、駿河、遠江(現在の静岡県)で強大な勢力をほこっとった今川義元と、尾張を統一したばかりの小大名織田信長。ちからの差は歴然であった。しかし、大軍をひきいて尾張に侵攻した今川義元にたいし、織田信長はみずから先頭にたって出陣し、「桶狭間」で義元をうちやぶり、歴史的な勝利をかざった。そのあと、織田信長は東海、北陸、近畿へと勢力を拡大し、豊臣秀吉の天下統一、徳川家康の江戸幕府へつながるいしづえをきずいた。
桶狭間古戦場まつり
6月第1どようび、にちようび開催(ほんまつりはにちようびのみ)
桶狭間のたたかいで戦死したひとたちの霊をなぐさめるおまつり。墓前祭、霊前祭、供養祭のほか、てづくりのよろい、かぶとにみをつつんだ武者たちによる武者行列や桶狭間の再現劇がおこなわれます。
桶狭間古戦場伝説地
1937年にくにの史跡指定をうけた。今川義元墓碑(1876年)、七石表(1771年)、弔古碑(1809年)などがある。(くに指定史跡)
今川義元墓碑
1876年、有松のひと、山口正義が建立した今川義元の墓碑。自然石に「今川治部大輔義元墓」ときざまれとる。まいとし6月、墓前祭がおこなわれる。
七石表、1号碑
1771年、尾張藩の人見弥右衛門黍(勘定奉行)、赤林孫七郎信之(小納戸役)が建立。今川義元と家臣の松井宗信ら計7基のつかのよこにたてられた。
1893年、高野山よりてらのなをおいうけて建立された真言宗寺院。まいとし6月の桶狭間古戦場まつりでは主会場となる。また、住職を導師として霊前祭がおこなわれる。
戦人塚
曹源寺住職らが桶狭間のたたかいの戦死者をあつめてほうむったつか。つかのうえの石碑は、1739年、今川義元の180回忌のさいにたてられたものとつたえられとる。(くに指定史跡)
曹源寺
1505年、実田以耘が開創。桶狭間のたたかい后、住職が戦死者を戦人塚に、今川義元と武将を位牌堂にまつって供養した。知多四国巡礼の一番札所でもある。
阿野一里塚
1604年、家康が永井白元、本田光重に命じて街道のりょうがわにきずかせた街道のみちしるべで、りょうがわに一里ごとに設置された5間四方のどもりづか。
沓掛城址
桶狭間のたたかいのまえに、今川義元が着陣したといわれる。たたかいのあと、織田信長は家臣築田出羽守にあたえた。そのあと、織田玄蕃、川口久助とかわり1600年ごろに廃城とかんがえられる。
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桶狭間古戦場伝説地のばしょは、えきからみなみにちょこっといったとこ。
〔2020年9月21日訪問〕