2020年9月15日、亀岡を訪問。京町どおりをひがしにあるいていくとこで、みぎに『丹波亀山城惣構』の説明がきを発見。
丹波亀山城は、天守などがおかれた本丸や西の丸、二の丸をかこむ内堀(うちぼり)と、御館や上級家臣団の屋敷が配された三の丸をかこむ外堀(そとぼり)、ほのそとがわにひろがる町衆や中、下級家臣団の居住地である城下町を土塁やほりをめぐらせる惣構(そうがまえ)からなる三重のかまえになっております。
この惣構は、軍事的緊張のたかかった戦国時代末期から江戸時代初頭にかけて、家臣団屋敷のほか、町屋、職人町、下級武士街、寺社までも土塁やほりでかこみ、防御目的のためにつくられたもんであり、でいりぐちには門や木戸(きど)をもうけました。さらに土塁上にはたけなどをうえて、惣構のそとから城下をみとおせんようにしました。
亀山城の惣構の規模は、土塁がはば10メートル、たかさ4、5メートル、総堀(そうぼり)もはば10メートル、ふかさ2、3メートルで、総延長が3キロ弱にもおよぶもんでした。
なお、この惣堀は『亀山城地録』などによると、北条氏勝が亀山城在番(ざいばん)をつとめとった1602年ごろに造営されたってしるされ、ほの造営にあたっては、城下のなかでつみをおかした罪人のつみの多寡におうじて坪数をきめてほらせたことから、「とがめぼり(咎め堀)」ってよばれたともつたえます。
なお、江戸時代になってよのなかが安定してくると、宗堅寺の亀山城主菅沼氏の墓所がつくられたように、惣構本来のやくわりがうすれ、随所で改変がみとめられるようになります。この惣構は、ふるさと亀岡の歴史がいまにいきづく貴重な文化財であり、市民共同でまもっていくべきたいせつなもんです。