2020年10月むいか、福知山光秀ミュージアムと福知山城をおとずれさまざまな展示資料をみてきた。以下にほのごくごく一部のもんを紹介する。
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福知山光秀ミュージアムの展示資料
光秀ゆかりの地福知山
織田信長に命じられて丹波ぜめに乗り出した明智光秀は、緒戦の黒井城(くろいじょう)ぜめでは八上城(やかみじょう)主の波多野秀治のうらぎりにあって敗走するなど苦戦をしいられます。やがて亀山城をてにいれて拠点としてからは攻勢に転じ、八上城や黒井城など主要なしろをおとして丹波を平定しました。ほの恩賞として信長から丹波一国を拝領した光秀は、善政をひいて領民にしたわれるなど、丹波の各地におおくの痕跡をのこしております。とくに福知山では、光秀が横山城を福知山城と改名して大修築をほどこしただけでなく、由良川(ゆらがわ)の改修や堤防を築造して水運の設備をととのえ、地子銭(じしせん)免除の特権をあたえて一大商都の基礎をつくったと伝承されております。こうした光秀の功績をたたえ、ほの非業の最后をなぐさめるために御霊神社(ごりょうじんじゃ)がたてられるなど、福知山ではずっと光秀は愛されつづけております。
注:八上城は篠山城の前身。
注:黒井城はいまの丹波市の区域にあった。丹波平定をはたした光秀が西国攻略の拠点にきずいた城郭
福知山城あと丹波を平定した明智光秀が、前身の横山城を近世的に大改築した城郭です。ほのさい、なまえも福知山城(福智山城)とあらため、じぶんの治世に反抗的な近隣社寺をうちこわして石塔類を天守台のいしがきに転用したとつたえられております。ほのあと、光秀は丹波の主要なしろを重臣たちにまもらせ、福知山城には明智秀満(左馬助)を、黒井城には斎藤利三を、八上城には明智光忠をそれぞれ配置しました。
光秀の死后、城主はめまぐるしくかわり、明治時代の廃城令でとりこわされましたが、1986年に市民のあついおもいで天守が再建されました。
水害対策のため光秀がうえたとされるたけやぶ
明智やぶ明智光秀が福知山市内をながれる由良川の水害対策のためにうえたとされるたけやぶです。かつて由良川と土師川(はぜがわ)が合流する地点は、たびたび氾濫をおこしておりました。ほこで光秀は、城下を建設するときに由良川のながれをおおきくきたにつけかえるという大規模な治水工事をしたとつたわります。
現在、「蛇ケ端御薮(じゃがはなおんやぶ)」ともよばれる明智やぶは、福知山城からきたへ200メートルほどいったどてからみごとなたけやぶをみることができます。
逆臣の汚名をきせられた光秀をかみとしてまつった神社
御霊神社主君の織田信長を本能寺の変でうったことから、逆臣の汚名をきせられた明智光秀をかみとしてまつった神社です。税の免除や堤防の築造など福知山に善政をひいた光秀は、おおくの領民からしたわれとったといわれます。1705年、洪水や火事といった天災にたびたびおそわれたことから、これを光秀のたたりとかんがえて、もともと五穀豊穣や商売繁盛のかみとして信仰をあつめとった神社に、町衆によって光秀を合祀したとつたわります。
現在、境内には「免税ときめて光秀なをのこし」ときざまれた石碑がたちます。また、まいとし10月の例大祭にあわせて「丹波光秀ききょうまつり」が開催され、福知山市の代表的なあきまつりとしてしたしまれております。
福知山城築城(光秀51才)
このころ、福知山城を築城。
城代は明智秀満(あけちひでみつ)。
第1次丹波攻略戦
1575年6月、光秀は信長に丹波平定を命じられた。丹波のあかおに、悪右衛門(あくえもん)ともよばれた荻野直正(おぎのなおまさ)の黒井城を包囲したが、みかたのはずの波多野秀治(はたのひではる)のねがえりにあい、黒井城ぜめから京へ退却した。
1575年
黒井城のたたかい、「丹波のあかおに」荻野直正をせめる
6月、信長に丹波平定を命じられる。
7月、丹波にはいり宇津氏討伐のため桐野河内(きりのこうち)に出陣。
ほのあと、宇津氏を攻撃。
8月、信長の越前一向一揆平定戦に参加。
10月、黒井城ぜめの軍勢をおこす。
11月、荻野直正のろうじょうする黒井城を包囲。
1576年
波多野秀治のねがえりで、光秀は黒井城退却
1月、明智軍にくわわっとった八上城の波多野秀治が、うらで赤井・荻野氏とつうじとってねがえった。
黒井城ぜめから退却。
4月、信長は荻野直正、赤井忠家らのわびをうけいれ和議をむすぶ。
第2次丹波攻略戦
1577年、光秀は亀山城の築城とともに丹波攻略を再開した。荻野直正なきあとの黒井城をせめ、波多野氏のろうじょうする八上城を包囲した。1579年、ついに八上城、黒井城が落城し、丹波平定をなしとげた。
1577年
10月、籾井城をせめる。
1578年
1578年、八上城ぜめ開始。
3月、黒井城主、荻野直正が病死する。
4月、園部城をせめおとす。
4月、細工所城(さいくしょじょう)落城。
10月、有岡城の荒木村重が信長に反旗をかかげる。12月、摂津有岡城の荒木村重を攻撃。
1579年
1579年、八上城ろうじょう戦。
3月、丹波で大攻勢を開始する。
6月、八上城落城。ろうじょうしとった八上城の波多野秀治ら兄弟3人を捕縛。
7月、軍を反転させて宇津城を攻略。宇津頼重を追討。
鬼ヶ城(おにがじょう)のたたかい。
7月、鬼ヶ城をせめる。
黒井城のたたかい。
8月、黒井城の赤井直義が敗走。
9月、国領城(こくりょうじょう)落城。
福知山城築城。
ほのあと、明智秀満が城代となる。
斎藤家と織田家をむすぶ気丈で才知あるひめ
斎藤道三のむすめで高政は異母兄弟。いとこの光秀とはおさないころからのつきあいで、おたがいにきのおけんあいだがら。道三と織田信秀の和睦のため、信長の正妻となる。
福知山城築城
光秀、この地にしろをきずきなわばりをして、福知山とあらためる
明智光秀は、1579年ごろから、横山城をせめおとし、福知山城をきずき、この地を福知山と命名した。
塩見家文書としてつたわる『曽我井伝記横山硯全』には、「1580年8月はつか明智光秀横山を攻落して、同年築城せんとなわばりのときにかわをうみて、城内にとりこみ」とある。
ほのあと、明智秀満が城代となったが、本能寺の変のあと、城主が交代するなかで、順次整備がすすめられ、関ケ原のたたかいのあった1600年前后に完成とかんがえられとる。
しろは明治維新后の廃城令によって解体された。現在の福知山城は1986年に天守と連結式の小天守が復元されたものである。
いしがき - てらからあつめた転用石
しろをささえるいしがきはさまざまないしを乱雑につみあげた「のづらづみ(野面積)」の技法になっとる。光秀は、築城のさいに近隣のてらなどから五輪塔(ごりんとう)などの石塔類をあつめ転用石としてつかった。現在の天守台から本丸にかけてのいしがきは転用石がほのままのこされとる。
城下町整備
なわばり - かわをうめて城内にとりこむ
福知山城は福知山盆地のほぼ中央にあり、由良川(ゆらがわ)と土師川(はぜがわ)合流するにしがわの自然堤防上につくられとる。
光秀は自然の地形を利用しながらかわを城内にとりこみ、堅牢ななわばりをつくった。
城郭 - あらたな都市計画
光秀は、近世的城郭としての福知山城を築城し、あらたな城下町をつくった。
福知山城周辺に城郭地区、にしがわに武家やしき地区、きたがわにまちやしきとてらまち地区を配し、まち全体はきたにむかってほそくなり、周囲はほりとどいがとりまく総郭(そうぐるわ)がたのかまえである。
福知山城の展示資料
1579年6月の八上城落城后、同年7月には宇津氏をせめ、直后の8月ここのかには黒井城も落城し赤井氏も敗走。8月から9月にかけて天田郡(あまたぐん)、何鹿郡(いかるがぐん)の制圧をおこない、9月22日には国領城(こくりょうじょう)を落城させた。ほいで、10月に信長に丹波平定を報告し、丹波ぜめはようやく終結した。
光秀の丹波でのはたらきは信長から「天下の面目をほどこしそうろう」と第一に賞賛され、翌1580年には丹波国を拝領し、丹后国にはいった細川藤孝や大和の筒井順慶の后援もつとめるなど、畿内に多大なえいきょうりょくをもつこととなった。
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(さんこう)