2020年9月15日、亀岡を訪問。柳町どおりをひがしにすすんだとこで、みぎに高砂山だしぐらを発見。説明がきに、つぎのとおりかいてあるのをかくにん。
明智光秀の亀山城築城(1577年)により、城下町が形成され、ひがしは旅篭町(はたごまち)より、にしは紺屋町(こんやまち)にいたる141間(280メートル)、戸数57軒のまちなみでした。
町名は、やなぎがおおくみられたことや、やなぎから想像されるいきな商家があったことからつけられたって推定されております。
10月の亀岡祭(にじゅうよっか、25日)は、室町時代にはじまるっていわれますけど、江戸時代には藩主が参勤交代で在城のときは、町衆のこころいきのあらわれとして盛大におこなわれました。
高砂山鉾は、1755年に舁山(かきやま)として造営されました。現在のこる11基の山鉾のなかで3番めにふるい年紀銘をつたえております。
1825年には舁山から曳山(ひきやま)へと改装され現在にいたっております。まつりには、鉦(かね)、太鼓(たいこ)、笛(ふえ)の三重奏でかなでるはやしにあわせ山鉾巡行もおこなわれております。
高砂山鉾は、おきな、おうなを御神体としておまつりしておりますけど、これは播磨国高砂神社(兵庫県高砂市)の御分霊と推定されております。