上宮寺の資料

もくじ
〔顕彰のいしぶみ〕〔岡崎市指定文化財〕〔ふだんざくら〕〔上宮寺旧本堂〕〔さるすべり〕

顕彰のいしぶみ
2020.4.16 (11) 上宮寺 - 顕彰のいしぶみ 2000-1500
顕彰之碑
当山は太子山聖徳皇院上宮寺と称し推古朝の昔、聖徳太子甲斐の黒駒なる名馬にまたがり全国巡狩の砌、当山に立ち寄り一宇を開創されたと伝えれらる。ついで親鸞聖人関東より御帰洛の途中、当地柳堂に於いて布教、当山住職は初めて浄土真宗への帰依、ついで建長年中(1249年から1256年)には矢作の薬師堂に於いて下野の国真仏顕智上人の教えに感服し益々浄土真宗への信仰を深め、応仁年間(1467年から1469年)には本願寺蓮如を迎え、当山住職佐々木如光はその信頼を一心にうけた。その后1563年三河一向一揆の勃発に伴い難を避けて約20年間寺族信徒ともども諸国をさまよい、その間住職勝祐信祐長島一向一揆で討死する等の悲劇にあったが、1585年徳川家康の叔母石川清の内室妙春尼の斡旋により和議成立帰国することができた。慶長年間(1596年から1615年)岡崎城田中吉政勧進により18間4面の大伽藍が寄進され、以来今日まで三河最大の木造建築として高く甍を中空に聳えて寺の様式を守って今日に至った。
太子山上宮寺は、1988年8月31日出火全焼した。予想外の出来事に関係者一同今后の方策に迷い途方に暮れたが、さる先人の「歴史を忘れてはならない、しかし過去にとらわれてはならない」との指示をうけ、目前に迫る21世紀の寺院のあるべき姿を勘案して総額5億円余りの浄財を集めることにした。以来7年間の歳月を経て1996年3月9日落慶法要の厳修見通しが見えて来た。偶々この間は日本経済の混乱の時期に当たり、この各位のご協力は並々ならぬ御苦労であった。特に寺族の一人は生涯を乏しきに耐えその財産の多くを今回に寄贈された。しかしその金額についてはあえて公開を避け本人の主旨を尊重して金一封としてその氏名を残し、二位以下の人々の浄財の額と氏名を石文に刻み今回の太子山上宮寺の再建に当たり苦しい中から浄財を提供された人々の名前を永遠に残し、その御苦労を末永くとどめその労に報いるものである。もちろん言うまでもなくその金額は千差万別ではあるがそれを寄進された人々にとってはいずれも想い出多き努力の結晶であった。

岡崎市指定文化財
2020.4.16 (4) 上宮寺 - 「岡崎市指定文化財」 1450-1160
上宮寺
史跡 - 上宮寺境内地(じょうぐうじけいだいち)
上宮寺は、寺伝によれば聖徳太子の開基(かいき)である。はじめ天台宗で第23代住持(じゅうじ)蓮行(れんぎょう)のときに真宗にあらため、15世紀中葉に第30代如光(にょこう)が高田派より本願寺派に改派した。勝鬘寺(しょうまんじ)、本証寺(ほんしょうじ)とともに真宗本願寺派三河三か寺と称され、三河尾張、美濃、伊勢で末寺、道場105をもつ中本山(ちゅうほんざん)として、おおきな勢力をほこった。
17世紀初頭のえずによれば、中世の本寺は、きた、ひがし、みなみを妙覚池かこまれた方形の平地上にたち、三方には土塁とほりがめぐらされ、にしにも土塁があった。そのにしの塀とみぞにかこまれた区画に寺内町があり、全体として守護不入(しゅごふにゅう)の特権がみとめられておった。
1563年から1564年、地域支配権の確立をはかる徳川家康と守護不入特権をめぐって対立し、三河一向一揆の拠点となった。一揆敗北后の本願寺派寺院追放命令によって、寺内は破却されたが、1585年に再興がみとめられた。寺内には、再興に尽力した松月院釈尼妙春(しょうげついんしゃくにみょうしゅん)(芳春院妙西尼(ほうしゅんいんみょうさいに))のはかがある。
17世紀中葉の矢作川改修や、妙覚池うめたて工事によって、周囲の地形はおおきくかわっておるが、東方の土塁あとなどから往時をしのぶことができる。
1962年6月15日指定
岡崎市教育委員会

ふだんざくら
2020.4.16 (5) 上宮寺 - 「ふだんざくら」 1400-1350
三河一向一揆は主従、おやこ、兄弟に骨肉のあらそいをもたらしたけど、1585年、ようやく徳川家康は赦免を決意し、当山住職尊祐(そんゆう)ほか関係者一同を伏見城下の陣屋にまねいて寺領安堵の黒印状をくだした。ほのおり家康は尊祐にたいし、伊勢国白子ノ郷(いまの三重県鈴鹿市)の徳川家累代の祈願所、真言宗子安観音寺(こやすかんのんじ)にたちより、こんかいの吉報を本尊百衣観音(びゃくえかんのん)に言上(ごんじょう)すべきむねを託した。命をうけた尊祐はさっそくこのてらをおとずれ住職につたえたところ、こんかいの家康公のおはからいは天下泰平のあかしってよろこび、尊祐ににわまえの名木「不断桜(ふだんざくら)」のみばえのわかぎをわかちあたえてほの労をねぎらったってつたえられとる。ちなみに白子不断桜は、8世紀なかば雷火のために焼失したこのてらの伽藍のあとにめばえたってされ、現在でもくにの天然記念物としてほのなをひろくしられとる。
さて、尊祐によって当山にもたらされたみばえのわかぎは、ほとけのご加護によるためか以来400数十年、昭和の火災をもくぐりぬけこんにちにいたり、あいかわらず11月より4月まで四季をつうじてはなをむすび、不断桜のほまれをたもっとる。
はなのかの たえぬめぐみの おどうかな
五城

上宮寺旧本堂
2020.4.16 (6) 上宮寺 - 「旧本堂の写真」 1730-1300

さるすべり
2020.4.16 (7) 上宮寺 - 「さるすべり」 1230-1230
数藤斧三郎(すどうおのさぶろう)は明治大正時代の一高(現東京大学)の数学教授である。と同時に正岡子規斎藤茂吉に師事し、高浜虚子の「ホトトギス」の同人として「五城」の俳名をもってしられとった。
大正はじめのなつ、数藤は佐々木月樵(ささきげっしょう)をたずねて当山をおとずれ、1か月あまり逗留して多年の数学研究の成果をまとめた。ほのかん本堂うらの香部屋にこもり、鉛筆1本をにぎりしめて机上の半紙1枚をみつめ、無限のひろがりをもつ数学のゆくえをおいつづける苦闘のときが昼夜つづいたっていう。ほのような数藤やすらかなゆめじにさそったのはよあけをつげる余韻鰯鰯(よいんじゃくじゃく)のたえなるかねのねであり、ほのねいろが煩悶解明のみちをいくたびかひらくよすがとなった。
みずからのしごとをなしおえ帰京のひをむかえたあさ、数藤はときのかねをつく機会をあたえられた。一鐘一打ほのつどあけゆくそら、しだいにひろがりをみせる空間においてかねのねにたましいをえるがごとく、おともなくはなびらをちらす百日紅さるすべり)の老木。大悟一番、おもわずくちからながれでたつぎの一句、虚子をして、「花鳥諷詠(かちょうふうえい)の妙、ここにきわまる」って絶賛したっていう。
さるすべり かねつけばちる あしたかな
五城

〔2020年4月16日訪問〕