市川房枝生家あとの説明がき

美濃路は萩原宿のにし、明地村(めいちむら)吉藤に市川房枝生家あとがあって、説明がきにつぎのようにかいてある。

2021.11.11 (27-1) 市川房枝生家あと - 説明がき 1710-1480

市川房枝生家あと

    • 大正、昭和の婦人運動家でしられる市川房枝1893年5月15日、ちち藤九郎とははたつの三女として中島郡明地村吉藤のこの地でうまれた。
    • 房枝は1899年、中島郡明地村立明地尋常小学校に入学し、卒業后、起町(おこしちょう)にあった起町他三ケ村学校組合立西北部高等小学校に入学した。当時はまだ旧美濃路のまつなみきがのこっており、まつなみきの街道をとおったことや「伊吹おろし」がさぶかったことを回想しとる。高等小学校1年生のころに担任だった岩田よね先生が房枝にはあこがれのまとだったという。1907年、じもとに朝日尋常高等小学校が設立され、同校に転校して卒業した。1908年に上京し女子学院に入学するが、同年7月に帰郷し、萩原町立尋常小学校代用教員となった。翌1909年には愛知県立第二師範女子部に入学し、1912年、新設された愛知県立女子師範学校にうつった。このとき、校長の良妻賢母教育に反発したことでしられる。
    • 卒業后は母校の朝日尋常高等小学校の訓導を1年つとめたあと、名古屋市立第二高等小学校に転勤となった。1917年、教員を退職し、名古屋新聞(現中日新聞)の記者を1年つとめた。ほのあと、上京し、婦人運動に従事することになる。
    • 1953年に第3回参議院議員にはつ当選し、通算4期つとめた。1980年の第12回参議院選挙では全国区1位当選したが、翌1981年2月11日に87才で没した。
    • 生前、房枝は自伝のなかで80年の生涯をふりかえったとき、第一にまぶたにおもいうかぶはははのおもかげであり、暴力にたえるははのすがたであったと回想しとる。房枝のちち藤九郎はこどもにはやさしかったいっぽうで、ははたつにはきびしかったという。ははは「おんなにうまれたのが因果だから」と房枝にかたったといわれる。おさない房枝のあたまに「なぜおんなはがまんせにゃならんのか」という疑問がきざみこまれ、のちの婦人運動の原点になったという。

(写真提供:かぶしきがいしゃ桜映画社、財団法人市川房枝記念会)
一宮市教育委員会

2021.11.11 (27) 市川房枝生家あと - 説明がき 1990-1500 2021.11.11 (26) 美濃路(みのじ) - 市川房枝生家あと 1600-1200

〔2021年11月ここのかと同月11日に訪問〕


(さんこう)

  • はぎわらじゅくのたび - 2021年11月ここのか - あきひこゆめてつどう|2021/12/21
    • 2021年11月ここのか、美濃路は萩原宿(はぎわらじゅく)をたびした。
    • 萩原橋をわたってすすんで、美濃路がみぎにかねんてになるとこのうちがわがあきちになっとって、ほの一角に婦人運動家市川房枝生家あとの説明がき。となりに公衆便所もあるってことは、ここがひとつの名所になっとるってことか。
    • 説明がきをよんでみる。
      • 1893年、中島郡明地村吉藤でうまれる。1981年、なくなる。自伝のなかで80年の生涯をふりかえったとき、第一におもいうかぶのはははのおもかげであり、ちちの暴力にたえるははのすがただったって回想しとる。ちちはこどもにはやさしかったけど、ははにはきびしかった。ははは「おんなにうまれたのが因果だで」って房枝にかたったっていう。房枝のあたまに「なんでおんなはがまんせにゃいかんのか」っていう疑問がきざまれて、のちの婦人運動の原点になったっていう。
    • ここは萩原宿とはべつの吉藤ってとこになるだ。市川房江の回想する「ちちの暴力にたえるははのすがた」ってとこ、あるあるだ。おんなに完璧をもとめるおとこっての、おもいあたるきもする。