美濃路は萩原宿(はぎわらじゅく)のきたに天神のわたしがある。いまは日光川がながれとるとこだけど、むかしはこれが木曽川だって、ほいでわたしがあったってわけだ。にしがわとひがしがわにそれぞれいしぶみがある。
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にしがわ
一宮市西萩原2249の一部
天神神社
1977年1月17日指定天神のわたしあとは、かつての木曽川の主流であった現在の日光川のとせんばのあとで、「萩原わたし」ともよばれた。
日光川は、野府川(のぶがわ)と五条川(小信川)が合流し、古川、萩原川ともいわれた。
1591年と推測される豊臣秀吉の四奉行連署の「萩原船頭給継目証文」によると、このとし60石の船頭給があたえられとったことがしられる。ほのあと、慶長のころまでひきつづき尾張藩によって60石の給米が支給されとった。これは1586年の大洪水で、木曽川の主流が現在の位置をながれるようになったあとも、萩原川のながれがひろく沼地化して渡船を必要としたってことだらあ。ほのあと洪水のたびにかわはばがせばめられて、わたしは廃止され、萩原宿のにしに萩原橋がかけられた。
天神のわたしの位置は、日光川左岸の萩原山の天神社(一宮市萩原町萩原字松山)と、右岸のここ天神神社のあたりといわれており、両神社の社殿のかんは、直線きょりでおよそ480メートルであり、ほのころのかわはばのひろさをものがたる。
〔2021年11月11日訪問〕
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ひがしがわ
史跡
天神のわたしあといまの日光川が木曽川の本流であったころ、安土桃山時代から江戸時代へとうつるころの美濃路のわたしあと。当天神社と対岸にある尾西市・天神神社とのあいだにあったとされる。このわたしのあたりは萩原川ともいった。1586年の大洪水以降、主要流路が現在のように起(おこし)のほうにうつり、萩原川はかわはばもせばまっていたばしとなり、わたしも起がわにうつった。このかんの経緯は、起宿本陣加藤家文書中の1591年と推定される豊臣秀吉四奉行からの「萩原船頭給継目証文」などによってしられよう。江戸時代おわりごろの「名区小景」には、萩原川にかかるいたばしがみえる。
織田信長がはじめて斎藤道三と富田・聖徳寺で会見したかえり、道三がこのわたしまでみおくったともつたえられる。江戸時代には、東海道と中山道とをむすぶ脇往還として美濃路は繫栄し、萩原宿や起宿もにぎわいをみせた。徳川家康が関ケ原のたたかいから凱旋してとおったので、御吉例街道ともいわれる。
題字一宮市長谷一夫書
〔2021年11月11日訪問〕