桶狭間古戦場あとのいしぶみと桶狭弔古碑

2020.9.21 (38) 桶狭間古戦場あとのいしぶみと桶狭弔古碑 2000-1500

豊明の桶狭間古戦場みなみがわに、きたむきに桶狭間古戦場あとのいしぶみと桶狭弔古碑がたっとる。

桶狭間古戦場あとのいしぶみ

にしがわにあるのが桶狭間古戦場あとのいしぶみで、きためんに「桶狭間古戦場趾|愛知県」、にしめんはなし、ひがしめんに「従二位男爵野邨素介書」、みなみめんに「大礼記*1|1915年11月|有松町建立」ってかいてある。

桶狭弔古碑

2020.9.21 (39) 桶狭間古戦場 - 桶狭弔古碑(おもて) 1500-2000
2020.9.21 (39-1) 桶狭間古戦場 - 桶狭弔古碑(おもて) 930-2080

ひがしがわにあるのが桶狭弔古碑。おもてめんに全面碑文。

2020.9.21 (40) 桶狭間古戦場 - 桶狭弔古碑(うら) 2000-1500
2020.9.21 (40-1) 桶狭間古戦場 - 桶狭弔古碑(うら) 1780-1040

うらめんはしたのほうだけに文字。

2020.9.21 (41) 桶狭間古戦場 - 桶狭弔古碑説明がき 2000-1940

桶狭弔古碑の説明がきをよんでみる。

弔古碑

1809年5月、津島の神官、氷室豊永*2がたてたもの、いしぶみのおもてめんは「桶狭間のたたかい」を回顧する文と往時をしのぶ詩、うらめんには建碑の趣旨がほられとる。

文章は尾張藩儒学者秦鼎(号は滄浪、字は士鉉)、碑面の文字は尾張藩の大坂用達役(文中「天満邸令」)中西融の筆跡。

石工河内屋孫右衛門のてにより刻されたものである。

豊明市教育委員会

「桶狭弔古碑」現代文意訳(抜粋)

碑文1行~2行め

1560年駿河今川義元公がにしへと軍をすすめ、5月19日桶狭間のやまのきたに陣をひいた。織田信長公は、奇兵をもって、これをおそい義元公はほろんだという。

碑文3行~5行め

今川義元は大軍をひきいて尾張に侵入、鷲津、丸根のとりでをせめて陥落させ『あす、朝食するころには清須城はとれとるであろう』と豪語した。家臣たちはみな勝利を祝賀し、陣中でいわいざけがだされた。そのとき、西北よりくろくもがわきおこり暴風となった。

織田軍がせめこむ振動音と鬨(とき)のこえがせなかのほうからきこえたが、だれもとつぜんおそわれるとはおもっておらず、本陣は大混乱となり、格闘するが2,500人の死者がでた。

解釈

  1. 本陣のばしょを桶狭間山のきたの陣」と明記してある。桶狭間山は石塚山ともいわれ、現在KKホシザキ本社
  2. たたかいは「奇兵をもって」ときしゅうせんを明記してある。
  3. 碑文は、ただひとつのこる敗者がわの文で真実にちかい。
  4. このいしぶみを建立するばしょ、碑文については、尾張藩のゆるしをえてたてられた、尾張藩の正論である

〔2020年9月21日訪問〕


*1:大正天皇即位記念

*2:原文は豊長