豊明の桶狭間古戦場みなみがわに、きたむきに桶狭間古戦場あとのいしぶみと桶狭弔古碑がたっとる。
桶狭間古戦場あとのいしぶみ
にしがわにあるのが桶狭間古戦場あとのいしぶみで、きためんに「桶狭間古戦場趾|愛知県」、にしめんはなし、ひがしめんに「従二位男爵野邨素介書」、みなみめんに「大礼記念*1|1915年11月|有松町建立」ってかいてある。
桶狭弔古碑
ひがしがわにあるのが桶狭弔古碑。おもてめんに全面碑文。
うらめんはしたのほうだけに文字。
桶狭弔古碑の説明がきをよんでみる。
弔古碑
1809年5月、津島の神官、氷室豊永*2がたてたもの、いしぶみのおもてめんは「桶狭間のたたかい」を回顧する文と往時をしのぶ詩、うらめんには建碑の趣旨がほられとる。
文章は尾張藩の儒学者秦鼎(号は滄浪、字は士鉉)、碑面の文字は尾張藩の大坂用達役(文中「天満邸令」)中西融の筆跡。
石工河内屋孫右衛門のてにより刻されたものである。
「桶狭弔古碑」現代文意訳(抜粋)
碑文1行~2行め
1560年駿河の今川義元公がにしへと軍をすすめ、5月19日桶狭間のやまのきたに陣をひいた。織田信長公は、奇兵をもって、これをおそい義元公はほろんだという。
碑文3行~5行め
今川義元は大軍をひきいて尾張に侵入、鷲津、丸根のとりでをせめて陥落させ『あす、朝食するころには清須城はとれとるであろう』と豪語した。家臣たちはみな勝利を祝賀し、陣中でいわいざけがだされた。そのとき、西北よりくろくもがわきおこり暴風となった。
織田軍がせめこむ振動音と鬨(とき)のこえがせなかのほうからきこえたが、だれもとつぜんおそわれるとはおもっておらず、本陣は大混乱となり、格闘するが2,500人の死者がでた。
解釈
〔2020年9月21日訪問〕