長福寺にあるほらはざま
名古屋の桶狭間古戦場は長福寺境内ひがしのほうにほらはざまがある。桶狭間村は南朝の落人集落で、青山、梶野、中山のみっつの名字のひとたちがひっそりとくらしてきたとのこと。ほういやあ桶狭間古戦場保存会の会長も梶野幸男(かじのゆきお)さんだ。
桶狭間発祥の地の説明がき
ほらはざまのすぐちかくに桶狭間発祥の地の説明がき。
桶狭間発祥の地
このいずみの界隈は、14世紀なかごろ、南朝の落人がかくれすんだとされ、桶狭間発祥の地とよばれとる。
いずにうかぶおけがまわるようすから、「おけはざま(桶回間)」の地名がうまれたとする説があるが、長福寺のいずみはその伝承をもついずみのひとつである。
往昔(おうせき)の僧侶やむらびとが生活にもちいたしみずで、いまもかれることなくわきでとる。いどのかたわらには、仏法を守護する竜神がまつられる。
長福寺
〔2020年10月はつか訪問〕
(さんこう)
- 第2部緑区あれこれ - 名古屋市〔PDF〕 > 桶狭間
- 桶狭間で人々の生活がいつから始まったかは正確にはわかっておりません。二つの朝廷が争う南北朝の戦いに敗れた南朝の武者が、1350年ころ山間の谷間で農業をして生活するようになりました。
- このあたりの山には、多くの洞穴があったので、はじめは「洞(ほら)」と言われていました。その「洞」と「狭間」がつながって「ホラハザマ」と呼ばれました。そして「洞」をこの地方では「ホケ」と呼ぶことから「ホケハザマ」と呼ばれるようになりました。このホケハザマが、いつのころからか「オケハザマ」に変わっていきました。
- 地名は洞迫間が起源のようで、「ホケ」が「オケ」に転じて桶狭間となったとされておりますが、街道を通る人々の喉を潤すため、水汲み用のオケが泉に浮かべてあり、その桶が湧き出す水の勢いでグルグル回る様子から、桶廻間と呼ぶようになったとも言われております。
- 16世紀以前には洞迫間・公卿迫間でそれ以降は桶迫間・桶廻間・桶狭と書かれておりました。1878年の地方制度改正によって「桶狭間」の字があてられることになりました。