名古屋の桶狭間古戦場はおけはざま山に今川義元本陣あとがある。
おけはざま山
桶狭間合戦は1560年5月19日
信長公記(しんちょうこうき)に「今川義元は、おけはざま山に人馬のいきをやすめこれあり」とあるやまは、この地で、合戦当時は、現在より8メートルほどたかいやまであった。いくさ当日の午后1時ごろは、大雷雨で前記の公記に、この雷雨を「あまりのことに熱田大明神の神軍かともうしそうろうなり」としるしとる。
高地に着陣しとった今川軍は、落雷により大混乱となっとった。武路(たけじ)の低地に潜入、攻撃の機をうかがっとった織田軍は、好機なりと今川軍の右翼に突入した。やりをてからはなして落雷をさけとった今川軍は武器をすて、逃走した。追撃した織田軍は義元のぬりごし(塗輿)を発見、信長は大音声ただちに本陣攻撃を命じた。
今川軍は旗本300余名、義元をなかに円陣体形で退却中、士気あがる織田軍は果敢な突撃をくりかえした。今川軍は四散、義元は田楽坪(でんがくつぼ)においこまれてうちじに。午后4時ごろ、織田軍のかちどき、はざまにこだましとった。
信長は1567年稲葉城を攻略。天下布武を宣言。翌年足利義昭を奉じて上洛。以来奮戦すること20年、天下大半を制して、1579年安土に天下無双のしろを築城。ほのかんに、兵農分離、楽市楽座、関税廃止、インフラ整備など、かれの理想とする撫育民姓政策を実践、庶民を権門(けんもん)より開放して、農、工、商業の自立自栄のみちをひらいた。
信長のあついおもいは、秀吉、家康につがれて、250年間戦争のない平和な近世をつくった。
近世の第一歩は、この地このやまからふみだされたのである。みやびあけぼののなも、この古事からなづけたものである。
2009年1月設置
梶野渡
ここを信長はおそって、義元をうっただ。
〔2020年10月はつか訪問〕