路面電車である名古屋市内線は名古屋電鉄っていう私鉄により開業した。1898年5月むいか、広小路線の笹島町-県庁前間が開業。1901年2月19日、押切線(おしきりせん)の柳橋-志摩町-那古野町-押切町間が開業。本社は那古野町にあった。
開業時の路線(笹島~県庁前間)(1898年5月)
開業時の模様
建設工事は1898年3月に終了、試運転をおこなったあと竣工検査も合格して、5月むいかの午前9時から開業した。1895年2月ついたち開業の京都電気鉄道につづいて、わがくにで第2番めの電気軌道である。
当時の状況について1922年8月ついたちづけ名古屋新聞の電鉄市営移管記念特集記事のなかで、岩倉保線区勤務の山川市造はつぎのように回顧しとる。
「柳橋のにしのきたがわにあった名古屋馬車鉄道かぶしき会社用地っていうぼうぐいをうったのが会社のそもそものはじまりです。広小路も笹島のていしゃばまえからほの当時はにしむいとった久屋町の県庁のつきあたりまで12間はばのまちはできとったけども、柳橋よりにしはいえがまばらにたっとっただけでえきまえのひろっぱは一面のいけになってあしのなかでたぬきがないとったもんです。ほれからだんだん工事をやって1897年には発電機やこれをいごかす蒸気機関が堀川へついた。ところがころを那古野村の本社まではこぶみちがないでずいぶん困難したもんです。ほれから1998年の5月むいかに笹島から久屋まで開通することになったですけど、いまのように監督もなんにもないで専務の井上幸秀さんが汽車のつくたびに笹島へいって発車させとったもんですけど、当時の電車はたしか17人のりのやさしいもんでありました」
押切線市街図
ほのあと名古屋市内線布設のパターンになった建設費分担により市の道路改良事業とタイアップする方式は、はやくもここで採用されとる。軌道っていっても線路布設は容易じゃなかった。押切線の建設費は17万円ってみつもられとったけど、これに充当するため1899年7月に倍額増資を実行し、新資本金は50万円になった。
押切線・千種線の路線(1903年1月)
業務運営の確立
創立者であり、初代の社長であった小塚逸夫監査役は、1898年3月ついたちに開通を目前にして死去した。また開業以来、日常業務をいってに処理しとった井上幸秀専務とりしまりやくは1899年9月16日に死去した。かれは警察官出身だったけど、温厚篤実な性格で、1897年1月にとりしまりやく就任以来、複雑な諸問題を的確にとりさばいて開業にいたらせた功労者である。后任として1899年10月はつかに岡本清三がえらばれた。かれは創立者のひとりであったけどしばらく会社実務からはなれとって、このとき中枢に復帰して以来1914年12月に非常勤となるまで、会社運営の実務を掌握した。なお岡本が監査役から専務とりしまりやくにまわったのを補充するために、1900年1月に富田重介(重慶)が若冠28才で監査役に就任した。
1901年2月19日に押切線の柳橋~押切町間2.3キロが開通した。新線用に車両8両を購入し、合計20両となった。車両は増加したけど乗務員はほれにともなわず労働強化になったってうったえて、1901年2月25日~26日と賃金増額を要求する乗務員の争議が発生した。会社における労使紛争の嚆矢である。
1902年4月には通勤・通学定期券の制度をもうけ、1か月で通勤は40パーセントびき、通学は14才以下50パーセント、20才以下はおよそ70パーセント、20才以上は63パーセントのわりびきってした。
広小路線の千種延長
1902年6月には中央線千種駅の開業にともない久屋町~千種間1.8キロに広小路線の延長を出願し、1903年1月31日に開通した。このさいに運賃区間を改正して、全線を10区10銭とした。