明治のころは官庁街 - 愛知県美術館ギャラリーのへん

名古屋は、錦どおり久屋交差点の東北かどからひがしに愛知県美術館ギャラリーのたてもんにむかってさかをあがっていくとこに、「明治のころは官庁街」ってかんばんがあって、つぎのようにかいてある。いまは三の丸にある愛知県庁だけど、むかしはこのあたりにあったっていう。

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2022.1.27 (32) 錦どおり久屋 - 明治のころは官庁街 2480-1940

明治のおわりごろ、この銘板の位置からひがしがわをみると愛知県測候所、みなみどなりに愛知県立高等女学校がありました。女学校のみなみには木造2階だての豪壮な県庁と県会議事堂、そのひがしには愛知県警察部、日本赤十字社愛知支部がありました。オアシス21愛知芸術文化センターをむすぶ陸橋したの道路が武平町どおりです。江戸時代には武家やしきがつづいておりましたが、明治なかごろになると道路のにしがわは民家となり、ひがしがわには学校や役所がたちならびました。

1938年、議事堂と県庁は現在の中区三の丸へ移転しました。1945年のくうしゅうでこのあたりはすっかりやけのはらになり、翌年名古屋市は大胆な戦后の都市計画をすすめはじめました。それにより久屋町どおりと鍛治屋町どおりにはさまれた地域が久屋おおどおりとなり、そこに1954年6月、テレビ塔が建設されました。3年后には地下鉄東山線が開通し、そのうえが錦どおりとなりました。

愛知県庁と愛知県会議事堂(写真=名古屋市鶴舞中央図書館蔵)
1900年、広小路どおりの改修にともない、南久屋町にあった前庁舎の位置から東北方向にあたる地図上「3」のあたりに移転しました。県庁舎のにしどなりに議事堂がおかれ、いずれのたてもんも木造2階だて、たてつぼ1,815つぼあまり、しきち9,045つぼあまりであったといいます。1938年にいまの県庁舎が建設されるまで、愛知県の政務をになっておりました。
愛知県警察(写真=「東桜開学百年記念誌」より)
1900年、県庁の移転とともに、愛知県警察部も県庁のひがし(地図上「4」のあたり)に新築され、以来1938年までここに存在しました。写真は1900年にたてられた当時のたてもんですが、自動車がうつっとることから1916年以降にさつえいされたものとおもわれます。
日本赤十字社愛知支部(写真=名古屋市鶴舞中央図書館蔵)
また、県庁の東北(地図上「5」のあたり)には日本赤十字社愛知支部がおかれておりました。
愛知県立高等女学校(写真=「愛知県第一高等女学校史」より)
1903年にいまの愛知芸術文化センターあたり(地図上「2」のあたり)に開校した県立の女学校です。1915年に愛知県立第一高等女学校、1922年に愛知県第一高等女学校と改称。この女学校の卒業生は「県一の才媛」といわれておりました。あたらしい学校制度となった1948年、男子校の愛知県立明倫高等学校と合併し愛知県立明和高等学校となりました。
愛知県測候所(写真=名古屋市市政資料館蔵)
1890年7月、愛知県に属する名古屋一等測候所(当初の名称)がいまのNHK名古屋放送センターのあたり(地図上「1」のあたり)に創設されました。おおぎがわの風向計とまるい風車のついた風力計がたかくそびえ、科学の最先端と称されたといいます。ラジオもない当時、天気予報は測候所まえに掲示されておりました。1923年にいまの名古屋地方気象台のある千種区日和町に移転しました。

2022.1.27 (33) 地図にみる当時のたてもんの位置 1270-1270

〔2022年1月27日訪問〕