堀川にたつ福島正則の銅像

2019.6.11 (59) 堀川 - 福島正則 2000-1500

2019年6月11日、堀川にたつ福島正則(ふくしままさのり)の銅像をみた。ばしょは堀川東岸の天王崎橋(てんのうざきばし)と納屋橋(なやばし)の中間あたり。いしぶみもとなりにあってよんでみると、この福島正則こそが堀川をほったひとだとのこと。出世して50万石の広島城主になっとったとこで、この事業にあたっただげな。ほー、おぼえとかんと。

2019.6.11 (60) 堀川 - 福島正則説明がき 2000-1500
名古屋発展のいしずえ - 福島正則
福島正則公は1561年に現在の愛知県あま市で、大工のむすことしてうまれた。
わかくして豊臣秀吉公につかえ、賤ヶ岳(しずがたけ)のたたかいでてがら(七本槍の筆頭)をたて、出世の端緒をつかんどる。加藤清正公とともに豊臣秀吉公のこがいの武将としてかつやくし、35才で24万石の清須城主となった。関ヶ原の合戦では東軍にくわわり、40才で広島などを領有する50万石の大名にまで出世し、1610年の名古屋城築城のときをおなじくして、福島正則公により堀川が開削された
しかし、水害にあった広島城をかってに修繕したっていう口実で、1619年に4万5千石の高井野藩主(いまの長野県高山村)に改易され、失意のなか1624年に64才でなくなった。
福島正則公が開削した堀川は、城下への幹線輸送路やみぢかないこいのみずべとしてひとびとのくらしをささえ、明治になるとかわぞいにはおおくの工場や製材所ができ、いききする艀(はしけ)やいかだが工業都市名古屋をささえてきた。このため堀川は「名古屋のははなるかわ、堀川」っていわれとる。
しかし1955年から1964年ごろからトラックが普及してしずかな水面となり、いまは都心の貴重ないこいのみずべとしてしたしまれとる。