愛知医学校・愛知病院あとのいしぶみ - 堀川東岸の天王崎町

2019年6月11日、堀川東岸に愛知医学校・愛知病院あとのいしぶみを発見した。新洲崎橋(しんすざきばし)と天王崎橋(てんのうざきばし)の中間あたりで、むかしは天王崎町っていう地名だったらしいとこだ。愛知医学校・愛知病院ってのは名古屋大学医学部の前身で、このいしぶみのある堀川東岸に1877年に新築移転してから、1914年に現在地の鶴舞に移転するまでの37年間あったとのこと。

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2019.6.11 (55) 堀川 - 「名古屋大学の源流」 1220-1700
名古屋大学の源流 - 愛知医学校・愛知病院あと
名古屋大学名古屋帝国大学として創立されたのは1939年だけど、ほの源流は1871年の名古屋藩かり病院、かり医学校までさかのぼる。ほのあと、西本願寺掛所(別院)をへて、1877年にここ天王崎町に新築移転した。
しきちはおよそ18,800平方メートル。堀川河畔の街路に面したおもて門をはいり、うえこみにかこまれたつまさきあがりのみちをみぎにのぼると病院が、ひだりにとると医学校があった。和洋折衷のたてもんは、でいりぐちやまどわくにアーチがとりいれられ、しろしっくいにガラスまどの2階だて建築で、堀川河畔のたかだいにほの偉観をほこった。当時「かわの病院」ってよばれ、ひとびとにしたしまれた。
おやとい教師ローレツらの市道で西洋医学がひろめられ、この地域の医療行政もおおいに刷新されて、あたらしい医療への信頼がたかまった。1914年に現在医学部のある鶴舞に移転するまでの37年間、名実ともに医学の殿堂として医学教育と医療活動におけるかがやかしい足跡をのこした。
愛知医学校、愛知病院の堀川東岸への新築移転后130年を記念して、名古屋に西洋医学が移入された明治初頭をほうふつとさせるいしぶみを設置する。
2007年10月
特定非営利活動法人名古屋外科支援機構
(写真は1884年10月ごろの愛知医学校、愛知病院)

2019.6.11 (56) 堀川 - 愛知病院の外科手術図 1430-1440
愛知病院の外科手術図(名古屋大学付属図書館医学部分館所蔵)
ローレツ(老烈)の依頼により愛知県出身の柴田芳洲がえがいた。麻酔かかりがローレツ、執刀者が后藤新平、患者のうでをささえとるのが司馬凌海ってつたえられとる。
①アルブレヒト フォン ローレツ(1846~1884)オーストリア出身
ヰーン大学医学部卒。1876年から4年間、愛知医学校の教頭としてカリキュラムや学則を整備し、先進的な講義と医療をおこなった。1878年にはコレラ予防策として、下水道や公衆衛生政策を提案した。1880年、后藤新平に后事を託して離任し、ほのあとは金沢市山形市の医学教育にも足跡をのこした。
②后藤新平(ごとうしんぺい)(1857~1929)岩手県(水沢藩)出身
1876年に着任し、ローレツ、司馬凌海に師事。1881年に24才で校長兼病院長に就任した。設備や組織の充実、人材の登用など医学校、病院としての基礎をかため、当時全国でもかずすくない甲種医学校の認定をうけた。在任中は衛生思想の啓発にもつとめ、ほのあと、中央の衛生行政などに手腕をふるった。
司馬凌海(しばりょうかい)(1839~1879)新潟県佐渡島)出身
松本良順、オランダ人医師ポンペに師事。1862年に内科治療学書『七新薬』を出版。英語、ドイツ語、フランス語、オランダ語など7か国語に精通し、1872年に『和訳独逸辞典』を刊行。1876年に着任、特志病理解剖をにほんでさいしょに執刀するなど、ローレツとともに医学教育と医療に尽力した。司馬遼太郎胡蝶の夢』の主人公。
このいしぶみは、特定非営利活動法人名古屋外科支援機構が建立し、名古屋大学創立70周年記念事業のひとつとして本学に寄贈されたもんだ。ゆかりの地に設置するに際し、かぶしき会社トーエネックのご厚意により社有地の無償貸与をうけた。ここにしるして、特定非営利活動法人名古屋外科支援機構ならびにかぶしき会社トーエネックに感謝の意を表する。
名古屋大学総長平野真一
寄贈:特定非営利活動法人名古屋外科支援機構
協力:かぶしき会社トーエネック
制作:かぶしき会社虔山(けんざん)、かぶしき会社飯沼コンサルタント、内田工業かぶしき会社