美濃路は、本町どおり橘町交差点きた、美濃佐商店のわきに「橘町大木戸あと」の説明がきがある。
橘町大木戸あと
- 江戸時代、名古屋の城下には治安のため、つじごとにきどがもうけられ、なかでも城下につうじる主要な街道のいりぐちには「大木戸」をもうけ、夜間は閉鎖し城下防衛のやくわりをはたしておりました。名古屋城下には大木戸が3か所あり、赤塚(東区)は下街道(したかいどう)、樽屋町(西区)と橘町(中区)は城下のまちなみにつつまれ南北に縦断する本町どおり、宮の熱田より大垣にいたる美濃街道(美濃路)にもうけられておりました。
- この大木戸があった橘町は、名古屋城築城より50余年あとのころ、南寺町として城下の防衛をになった千本松のこの地を、1664年甲辰(きのえたつ)11月いつか、尾張藩2代藩主徳川光友侯により「橘町」と命名いただき、2014年、満350年をむかえます。ほこで、橘町開町350年を記念して『橘町大木戸』のはしらをイメージしたデザインの街路灯を1対設置し、往時この大木戸を通行していった、朝鮮通信使、琉球使節、ぞうやいくたいのたびびとたちにおもいをはせ、地域のランドマークになれば幸甚(こうじん)にぞんじます。
- なお、『橘町大木戸』の『橘町』の文字は徳川光友侯のご親筆とされる文字をつかわせていただきました。
2014年10月
橘町町内会
一般財団法人名古屋瑞竜工芸技術保存振興会
(2021年10月21日訪問)