おすし街道から木曽川堤防にあがったとこが笠松みなとで、説明がきのかんばんにつぎのようにかいてある。
笠松湊(かさまつみなと)
- 木曽川と笠松みなとが笠松町の発展につくしたやくわりはきわめておおきい。
- ここに木曽川ができたのは1586年の大洪水によるという。洪水の被害もおおかった。
- 1650年、美濃郡代岡田将監善政(おかだしょうげんよしまさ)が、「枝広(えだひろ)の大洪水」による木曽川づつみの復旧にべんりな笠町(かさまち/いまの笠松)に休憩所をおき、1662年、郡代名取半左衛門長知(なとりはんざえもんながとも)によって陣屋がここ笠松にうつされたので、地方行政の中心地、地方物資の集散地となり、かわみなとととせんばのまわりにできた集落、みなとまちもしだいにおおきくひろがり、さかえていった。
- 陸上交通がまだ発達しとらんかった明治時代には、木曽川の水運を利用して伊勢方面との交流がさかんで、伊勢神宮のご神木かわさげのおやすみの地でもあり、笠松みなとは、木曽川最大のかわみなとであった。1885年の記録では1日に38そう、1年間に6,440そうのふねがにをつんではいったとかかれとる。また、1893年ごろまでは桑名への定期の小蒸気船が1日に2往復し、みなとはにもつのつみおろしでにぎわい、おおくの仲仕(なかし)やくるまをひく労働者らがはたらき、50石ぶねといわれるおおぶねもにもつをはこんできとった。
- にはおもに、こめ、肥料、しお、雑穀、いと、大豆、石炭、土管などであった。にぐるまや馬車のわがつちのなかへはいりこまんように、さかみちがいしだたみにしてあるところからも、ほの繁栄ぶりがうかがえる。付近にはとんやや倉庫、ふなやど、料亭などもおおくあり、またかわ漁業もさかんで、あゆ、ぼら、かわますなどがとれた。
- 大正から昭和初期には、ポンポン船とよばれるおおがた発動機船の時代となったが、鉄道の普及、自動車の発達により笠松みなとのやくわりはおわった。
笠松周辺のとせんばと道路
〔2022年2月11日訪問〕