ふるいのえきにあっかい電車がはいってきて、ホームにまっとったひとたちをのせていく。名鉄西尾線ふるい11時25分のしんあんじょういきふつうは、2両編成きんぎょばちのあっかい電車。
京都鉄道起業顕彰碑 - 2020年9月15日
2020年9月15日、亀岡のまちあるきをおえて亀岡のえきまでもどったとこで、えきまえひろばのいちばん線路よりのとこに、京都鉄道起業顕彰碑っていう石柱のいしぶみがたっとるのを発見。
となりに、地面にねっころがるようなかたちで石板のいしぶみがあって、なにやらかいてある。
1853年、亀岡にうまれた田中源太郎翁は、1893年7月12日、浜岡光哲、中村栄助、膳平兵衛、小室信夫らとともに京都鉄道かぶしき会社を設立し、1896年4月から鉄道布設工事に着手しました。
保津峡の難工事、資金難などさまざまな苦難をのりこえ、1899年にJR山陰線(嵯峨野線)の前身である京都鉄道の京都~園部間を開通させました。
このことにより、丹波と京都をむすぶ一大動脈が構築され丹波の近代化にいちじるしく貢献するとともに、亀岡のいしづえをきずきました。
ここに、ほの功績をたたえ、顕彰碑を建立するもんです。
2010年2月吉日
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ほー、山陰線ってさいしょは私鉄だっただ。いや、しかし、1899年っていうはやい時期に、京都から亀岡をとおって園部までの路線を開業させとったってのはすごいな。しかも保津峡の難工事をやりおえての開業だ。
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(さんこう)
『丹波亀山城惣構』の説明がき - 2020年9月15日
2020年9月15日、亀岡を訪問。京町どおりをひがしにあるいていくとこで、みぎに『丹波亀山城惣構』の説明がきを発見。
丹波亀山城は、天守などがおかれた本丸や西の丸、二の丸をかこむ内堀(うちぼり)と、御館や上級家臣団の屋敷が配された三の丸をかこむ外堀(そとぼり)、ほのそとがわにひろがる町衆や中、下級家臣団の居住地である城下町を土塁やほりをめぐらせる惣構(そうがまえ)からなる三重のかまえになっております。
この惣構は、軍事的緊張のたかかった戦国時代末期から江戸時代初頭にかけて、家臣団屋敷のほか、町屋、職人町、下級武士街、寺社までも土塁やほりでかこみ、防御目的のためにつくられたもんであり、でいりぐちには門や木戸(きど)をもうけました。さらに土塁上にはたけなどをうえて、惣構のそとから城下をみとおせんようにしました。
亀山城の惣構の規模は、土塁がはば10メートル、たかさ4、5メートル、総堀(そうぼり)もはば10メートル、ふかさ2、3メートルで、総延長が3キロ弱にもおよぶもんでした。
なお、この惣堀は『亀山城地録』などによると、北条氏勝が亀山城在番(ざいばん)をつとめとった1602年ごろに造営されたってしるされ、ほの造営にあたっては、城下のなかでつみをおかした罪人のつみの多寡におうじて坪数をきめてほらせたことから、「とがめぼり(咎め堀)」ってよばれたともつたえます。
なお、江戸時代になってよのなかが安定してくると、宗堅寺の亀山城主菅沼氏の墓所がつくられたように、惣構本来のやくわりがうすれ、随所で改変がみとめられるようになります。この惣構は、ふるさと亀岡の歴史がいまにいきづく貴重な文化財であり、市民共同でまもっていくべきたいせつなもんです。
柳町どおりの高砂山だしぐら - 2020年9月15日
2020年9月15日、亀岡を訪問。柳町どおりをひがしにすすんだとこで、みぎに高砂山だしぐらを発見。説明がきに、つぎのとおりかいてあるのをかくにん。
明智光秀の亀山城築城(1577年)により、城下町が形成され、ひがしは旅篭町(はたごまち)より、にしは紺屋町(こんやまち)にいたる141間(280メートル)、戸数57軒のまちなみでした。
町名は、やなぎがおおくみられたことや、やなぎから想像されるいきな商家があったことからつけられたって推定されております。
10月の亀岡祭(にじゅうよっか、25日)は、室町時代にはじまるっていわれますけど、江戸時代には藩主が参勤交代で在城のときは、町衆のこころいきのあらわれとして盛大におこなわれました。
高砂山鉾は、1755年に舁山(かきやま)として造営されました。現在のこる11基の山鉾のなかで3番めにふるい年紀銘をつたえております。
1825年には舁山から曳山(ひきやま)へと改装され現在にいたっております。まつりには、鉦(かね)、太鼓(たいこ)、笛(ふえ)の三重奏でかなでるはやしにあわせ山鉾巡行もおこなわれております。
高砂山鉾は、おきな、おうなを御神体としておまつりしておりますけど、これは播磨国高砂神社(兵庫県高砂市)の御分霊と推定されております。
形原神社 - 2020年9月15日
2020年9月15日、亀岡を訪問。亀岡市立図書館からみなみにすすんで、これからH商店街にはいっていくってとこで、ひだりにあった形原神社をおまいり。説明がきに、つぎのとおりかいてあるのをかくにん。
形原神社
1748年に丹波篠山から亀山藩へ入封(にゅうほう)した形原松平信岑(のぶみね)を主祭神とし、歴代藩侯をまつるやしろとして1880年に旧藩主をしのんで創祀されました。
正面に唐破風(からはふ)をもうけた門と透き塀(すきべい)にかこまれた一間社流造(いっけんしゃながれづくり)、銅板ぶきの本殿大棟の鬼板をはじめ随所に「八丁子」の紋がほどこされております。これは当社のなまえのゆらいとなった形原松平氏の家紋です。手水覆屋(ちょうずおおいや)のおにがわらには「〇のなかに利」の紋がみられますけど、これも松平氏の家紋です。
あきもふかまる10月はつかには、神幸祭として鍬山神社から「鍬山宮」と「八幡宮」の2輦の神輿が氏子域を巡幸し、御旅所として形原神社拝殿に出御されます。10月25日のほんまつりには、城下町のつじつじにたてられた山鉾(やまぼこ)のにぎやかなはやしにむかえられながら、城下町を巡幸し鍬山神社へ還幸されます。
ひとくちコラム
形原神社は、亀山城の三の丸、亀山藩の政務をとりおこなっとった御館(おやかた)ってよばれとった藩庁のみなみ、かつて大手門のあったひがしがわに位置します。
拝殿のみなみがわに隣接してまつられとる小社の稲荷社は、もともと御館内にまつられとったもんを、形原神社創建にあわせて移築されたもんです。
『丹波亀山城あと、大本天恩郷』の説明がき
2020年9月15日、亀岡を訪問。亀岡市立図書館から内丸町商店街をみなみにちょこっとあるいていって、ひがしにはいりこんだとこに丹波亀山城あとへのいりぐちがあって、ほのわきに『丹波亀山城あと、大本天恩郷』の説明がきを発見。
亀山城は、1577年から1579年明智光秀による築城にはじまり、おおきく3期にわけ完成した近世平城(ひらじろ)です。
第1期は、光秀の丹波攻略の拠点で、近世城郭の先駆的なもんとしてきずかれました。3層の天守をそなえとったとつたえれらておりますが、詳細は不明です。
第2期は、豊臣秀吉の支配下にあった時期で、城下町整備を中心とした小早川秀秋による築城整備です。
第3期はもっとも大規模なもんで、岡部長盛(おかべながもり)が亀山藩主のとき、大阪城の包囲網として西国大名の夫役(ぶやく)による天下普請で完成し、1878年の廃城令で解体されるまでほの雄姿をほこりました。
1919年、荒廃しとったしろあとを、教団「大本」がかいとりいしがきをつみなおし、「天恩郷(てんおんきょう)」として神苑整備されました。1935年の大本弾圧事件で廃墟と化しましたが、戦后同教団によって復興され、しろあとのたたずまいとしてのこるいしがきと清閑なもりは、往時のすがたをしのばせてくれます。
【見学希望のかた】
いしがきの見学をご希望のかたは、大本本部「うけつけ」まで、おもうしでください。
ひとくちコラム
天下普請で完成した亀山城は、おおくの西国大名が夫役として動員されました。ほのことをしめすもんとして、いしがきを丹念にみてみると、55か所にわたり、17種類の刻印にみることができます。いしがき普請を担当した諸大名が、ほのいしの運搬を担当したことをしめすためにきざんだもんです。
ただし、しんがたコロナウイルスさわぎのため、しろあと見学はいっさいおことわりってことだった。