佐屋路(さやじ)は八熊交番前(やぐまこうばんまえ)西北にある小林書店のまえに中川まちなか博物館「佐屋街道と尾頭橋」って説明がきがあって、つぎのようにかいてある。
中川まちなか博物館「佐屋街道と尾頭橋」
- 佐屋街道縁起
- 東海道の熱田宮宿から桑名宿までの海路「七里のわたし」の迂回路として江戸時代に開設された陸路のわきおうかん。
- 佐屋路(さやじ)ともよばれる。
- ふなたびは天候しだいで欠航、またふなよいや犯罪にまきこまれやすい子女らの迂回路として往時、さかんに利用されました。
- 尾頭橋/尾頭地名由来
- 尾頭橋
「即ち、佐屋街道の往還橋なり、町の名を取りて如此唱へり(かくのごとくとなへり)」と尾張藩郷土資料「張州府志(ちょうしゅうふし)」に記述。- 尾頭
現牛立町(うしだてちょう)にある尾頭山願興寺(がんこうじ)は尾張最古のてらで白鳳時代、世界遺産の奈良元興寺(がんごうじ)の分院として道場法師が古渡村に建立。道場法師の生誕時、霊蛇がくびすじにまきつきへびのおとあたまがならんでうしろにたおれとった故事〔日本霊異記(にほんりょういき)に記述〕より山号を尾頭山と命名したとつたわる。
一時廃寺となるが鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも/源為朝)の次男、次郎義次により再興。その義次、平氏の源氏討伐よりのがれ熱田神宮にかくまわれたあと、朝廷をなやませた賊を成敗。恩賞として現在の金山から古渡、尾頭橋をふくむかなり広範囲の領地を拝領、法師故事にちなみ尾頭次郎義次となのり居城。
それゆえ、廃城后も一帯を「尾頭」といいつたえられとる。(由来については諸説あります)
願興寺は、織田信秀が古渡城を築城するさい、当時の尾頭村より現在地にうつる。
※ 「中川区の歴史」ほか、参照。- え:佐屋街道・尾頭あたり往時をしのぶの図
- T.Kobayashi 2013
- 写真:佐屋街道、この地をはしる市電(1969年下之一色線)
- 『名古屋の市電とまちなみ』より
- 地図:写真はこのあたりからさつえい
寄贈:佐屋街道にはなと歴史をのこす会
この歴史説明板は「佐屋街道にはなと歴史をのこす会」が
名古屋都市センターの「まちづくり活動助成」をうけて
製作、設置しました。2013年11月22日名古屋市
〔2022年5月27日訪問〕