挙母神社の由緒がき

2021.3.4 (23) 挙母神社 - 由緒がき 1800-1350

  • 祭神
    • 高皇産霊神(たかみむすびのかみ)
    • 天迩岐志国迩岐志天津日高日子番能迩々芸尊(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)
    • 天万栲幡千幡比売命(あめよろずたくはたちはたひめのみこと)
    • 天之水分神(あめのみくまりのかみ)
    • 国之水分神(くにのみくまりのかみ)
  • 由緒
    • 文治、建久のころ(1189年源義経の家臣、三河鈴木重善(のちの善阿弥)は源義経の没落をきき当地にかくれすみ、そののち大和吉野から子守社を勧請して衣上之郷にまつり奉仕した。鎌倉実記、義経勲功記に「そのころ熊野の鈴木次郎重行というものあり、矢作川のかみ、衣のさとというところあり、かのさとに庵室をしつらいすみける殊勝なる法師にさとびともとうとみしたしみけり、熊野のかみを勧請うんぬん」とあり延宝旧図に「大明神の本殿は4間に3間あり拝殿はながさ3間よこ2間とす。社内に薬師堂あり」とある。衣記に「子守大明神」は往古より挙母の鎮護たり、草創はいずれのとしともいまだつまびらかならず鈴木某熊野よりうんぬん」。旧幕時代は、子守大明神といっとったが1871年3月14日挙母藩庁から挙母神社とあらためられ藩社となり、そのあと郷社となった。
    • 1946年宗教法人令により届出認証登記、旧社格を廃止神社等級8等級。1953年宗教法人による「宗教法人挙母神社」設立認証登記。1979年9月28日神社等級6等級に昇格。
  • 祭儀(大祭)

〔2021年3月よっか訪問〕


(さんこう)

  • 公式サイト - 挙母神社 > 挙母神社について > 由緒
    • 神社の創建については諸説ありますが、一般的には1189年源義経の家臣鈴木重善(善阿弥)が、熊野より奥州の義経のもとに向かう途中、この地で義経討死の訃報を聞きここに留まり隠れ住んだ。その后大和吉野より「子守明神」を勧請してここに祀った、といい伝えられております。(挙母記・鎌倉実記)
    • この「子守明神」は江戸時代「子守大明神」と呼ばれ、歴代の挙母藩主が敬い、またこの地方の庶民の崇敬の中心となっておりました。
    • 1871年挙母神社」と改称され現在に至っております。
    • 挙母神社は別名「子守の宮」と呼ばれるように、子供の成長の守り神として昔より「おこもりさん」と呼ばれ、親しまれてきました。
    • それだけに安産祈願、初宮詣り、七五三詣りにと、いつの世にも変わらぬ親心で参拝者が絶えません。