2.天王土場
矢作の天王土場(渡場ともかき、ふなつきばのこと)は現在の矢作神社のまひがしにあたるかわぎしにあります。また、この土場の対岸には岡崎の八帖土場があり、さらに菅生川をのぼると、岡崎城下に御用土場、そして殿橋土場、満性寺土場もありました。
さらに岡崎以外の土場は、現在はしがかけられているばしょ(中畑橋、米津橋、渡橋、矢作橋、天神橋、松平橋、平戸橋)がそれぞれ土場が常設されていました。
さて、天王土場にふねがつくと土場もりが拍子木をならし、ふねのとうちゃくをしらせてまわりました。このおとをきいた近在の荷役人夫らは大八車やてぐるまをひいて天王土場へあつまります。堤防から土場へ上下するには、のぼり専用(うえのみち)、くだり専用(したのみち)の2本のほそみちがつくられており、かずおおくの荷役人夫がいきおいよくはたらきました。大八車の荷はそれぞれのみせや倉庫へおさめられました。
この土場のちかくに現在もおおきなやねをした倉庫が3棟あります。町内一区の徳倉氏所有のものです。この倉庫は、現在の矢作町の状況からは存在の意義が不明確ですが、明治初年に徳倉氏が創建したものとすれば、おおきなふたつの意味をもった倉庫といえます。
そのひとつは、天王土場からにあげされた海草、豆粕、にしんなどの海産物、肥料などの倉庫であり、またくだりにのまき、こめ、磨砂、すみなどが収納されていたものとおもわれます。もともと矢作地域は平坦地で、森林がなく燃料にはたいへんこまっていました。したがってこのかわの上流地域で生産されるまきや木炭は貴重なものとして大量ににおろしされ倉庫へ収納されたわけです。
第二の理由は、矢作地域で隆盛をきわめていた製糸工業の原料であるまゆや、製品の生糸を貯蔵するとともに工場が使用する大量の石炭も保管されたものとかんがえられます。なお、このような倉庫は対岸の八帖土場にもおおくたっておりいまでもそのすがたをみることができます。