村上忠順遺跡地のいしぶみ

高岡は新馬場神明宮(しまんばしんめいぐう)のきたに村上忠順遺跡地のいしぶみがあって、つぎのようにかいてある。

【正面】

村上忠順遺跡地
豊田市

2021.3.25 (35) 新馬場 - 村上忠順遺跡地のいしぶみ 1600-1200

◇            ◇

【みぎめん】

村上忠順(むらかみただまさ)遺跡地

医学者国学者歌人、幼名賢次のち忠順を称して承卿、蓬廬(蓬庵)と号す。1812年、ちち忠幹(ただもと)、はは美志の二男にうまる。1853年、刈谷藩主土井侯の侍医となる。忠順は医学書のほか、古事記標註、散木弃歌集標註など380巻をあらわし、生涯の蔵書は3万巻におよぶ。また、勤王の思想あつく天誅組の中心人物松本奎堂(まつもとけいどう)とも親交し、1868年、大総督有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)にむかえられ、江戸へ下向す。1884年、73才この地で永眠す。

2021.3.25 (36) 新馬場 - 村上忠順遺跡地のいしぶみ 1500-2000

〔2021年3月25日訪問〕


新馬場神明宮(しまんばしんめいぐう)の由緒がき

郷社神明宮と猩々

  • この郷社は、1929年に着工し、1931年4月ようかに竣工された。この神社は、神明づくりといわれ、近郷に類をみんりっぱなつくりである。上棟式には、2万人ものひとでがあり、付近のたやはたけまでひとであふれたという。造営費は、現在換算で、およそ5億円といわれ、昭和初期の不景気のなかで、わずか80戸たらずのちいさなむらでの大事業は、かみへの信仰のふかさをものがたっとる。
  • 当神社には、この地方にはめずらしい「猩々(しょうじょう)」がある。中国の伝説上のけもので、かたちは人間ににて、ひとのことばを理解し、さけずきという。猩々にさわられるとまよけになるとつたえられとる。猩々は、せたけがたかくひとの1.5倍くらい、かみはちゃいろでながく、にやけたあからがおで、わたいれのきもんをきてしりばしょりをし、したむきのしろいめが印象的である。
    2021.3.25 (25) 新馬場神明宮 - 説明がき 1980-1480

2011年度わくわく事業活動
ザ・めがわ塾

2021.3.25 (34) 新馬場神明宮 - 拝殿 1980-1480

〔2021年3月25日訪問〕