三木のまちは湯の山街道ぞいにある旧玉置家住宅(きゅうたまおきけじゅうたく)。おもやからわたりろうかをわたっておくにはなれにつながる。
はなれのやねはむくりやね。勾配が一定じゃなくて、なかぶくれになっとる。
そとぐらのなかに展示資料。
三木の玉置家を創設した初代は加西市(かさいし)出身で大器晩成和尚という元僧侶である。大器晩成和尚は、志染町地蔵寺第17世の和尚から雲竜寺の第21世大器晩成大和尚となり、1875年に還俗しとる。この時に玉置姓を名乗り、切手会所の土地建物を購入し住んだ時から玉置家住宅となっとる。 還俗した大器は利財の才もあり財を成し、建て屋など増やした。この時、増築された建物が現在の玉置家住宅である。 |
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1747年から、土州館林藩(群馬県)の支配を受けてより、1842年迄のおよそ100年間、館林藩の飛び地領の中心地であった。 館林藩が支配しとった天明時代(1780年代)に三木金物が勃興し、やがて金物産業が発展しはじめた頃、館林藩では財政破錠の窮地にあり、財政立直しの策として三木町の金物繁盛と活況に着目し、三木役所に切手会所の開設を命じたのが1823年であった。 三木の切手会所は1825年まで中町角屋伊兵衛宅を借りて運営しとったが、上町紅粉屋惣五郎の屋敷を買取って1826年2月に新築移転させた。この建物が后の玉置邸である。 |
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切手とは今の紙幣や小切手、商品券に代わるもので当時は各地の藩が「藩札」として発行し、町人の商取引に使われてきたが、1871年の廃藩置県と同時に藩札廃止令が発され回収焼却された。 会所とは切手(藩札)の発行と貸付け業務をする言わば役所の出先事務所である。 |
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はなれ2階みなみのまからなかにわをみる。
〔2023年9月18日訪問〕