墨俣城の展示資料に生駒屋敷の記述があった。吉乃(きつの)のくらす生家だって、藤吉郎が小六や信長とここでであって、吉乃をみそめた信長がここにかよったっていう。
むらおさのせがれ藤吉郎
木下藤吉郎は1537年、尾張の中村でうまれました。貧農のこせがれという印象のつよい藤吉郎ですが、「武功夜話(ぶこうやわ)」はその出自にふれ「尾張のくに中村むら、在中というむらおさのせがれ」としるしております。藤吉郎は13才のとき、武者奉公のこころざしをたて中村のいえを出奔。駿河、遠江、三河を流浪します。やがて尾張郡村(いまの江南市)の商人生駒八右衛門(いこまはちえもん)のやしきにいつくようになり、そこでかわなみしゅうの頭目蜂須賀小六とであいます。藤吉郎出世のおおきなあしがかり「一夜城築城」でかつやくすることになるふたりの運命的なであいでした。諸国の事情につうじ、こさいもきく藤吉郎を小六は「つらがまえがおもしろい」とめんどうをみるようになりました。
写真:藤吉郎生誕の地豊国神社(名古屋市)
生駒屋敷図:生駒陸彦氏藏
名将たちがあつまった生駒屋敷
生駒屋敷は、おおくのぶへんものたちが寄寓(きぐう)し、天下のゆくえを左右する名将たちがであう、もうひとつの戦国舞台で した。木下藤吉郎と蜂須賀小六はここでであい、意気投合します。織田信長が吉乃をみそめあししげくかようように なるのも生駒屋敷。そして藤吉郎が信長とであい、吉乃のくちぞえで武者奉公がかなうきっかけをつくったのも生駒屋敷でした。「武功夜話(ぶこうやわ)」は信長秀吉の天下統一に生駒屋敷が重要な舞台となったことをうきぼりにしました。
藤吉郎、信長の家来に
富裕な生駒屋敷にはおおくのぶへんものたちがでいりしておりました。織田信長もそのひとりで、このいえの吉乃を側室にしとったと「武功夜話(ぶこうやわ)」はつたえております。あるひ、信長が生駒家をたずね、藤吉郎をめしよせはなしあいてにしとったときのことです。藤吉郎はひごろのひょうきんさを発揮しおおいにわらわせたあと、直接武者奉公をねがいでたのです。吉乃のあに八右衛門(はちえもん)がこころえちがいをいさめたが「御大将のうまのくちとりなりとつかってくだされ」と吉乃にくちぞえをたのんだといいます。それにより、信長のつかいはしりなどをそつなくこなすうち、ついに信長の居城清州での奉公がかな います。そこは天下とりへむかう藤吉郎の出世街道のいりぐちでした。
〔2023年8月17日訪問〕