西高木家陣屋あとは、旗本(はたもと)であった西高木家の陣屋あとで、いしがき、ながやもんなどの建造物、石列、暗渠などの地下遺構が良好にのこされとる。また、ぼうだいな古文書群が現存し、近世旗本領主の実態をしめすきわめて重要な遺跡である。
高木家は美濃南部駒野(こまの)・今尾(いまお)周辺(現・海津市)に勢力をはった土豪だった。関ヶ原合戦の功により、石津軍時(とき)・多良(たら)郷に4,300石をあたえられ入部し、江戸時代をつうじて同地を旗本として支配した。西家(2,300石)、北家・東家(各1,000石)の3家からなり、「交代寄合美濃衆(こうたいよりあいみのしゅう)」として大名と同等の格式をゆるされ、知行地(ちぎょうち)に常時居住しながら江戸屋敷を有し、参勤交代をおこなった。領地は美濃・伊勢・近江の3国が接する軍事・交通の要衝で、とくにかみがたの非常事態にそなえた。また川通(かわどおり)御用の役儀をにない、ほぼ江戸時代をつうじて木曽三川の治水行政にあたる水行(みずゆき)奉行をつとめた。
陣屋は牧田川が形成した河岸段丘上に位置し、高位がわに西高木家陣屋が、低位がわに北家・東家の陣屋が隣接していとなまれた。西高木家陣屋は伊勢街道に東面し、段丘崖を中心にいしがきが構築され、埋門(うすみもん)も整備された。きたに上屋敷、みなみに下屋敷がかまえられ、上屋敷西方には墓所がいとなまれた。
墓所にははかいし42基がのこり、18世紀后半から石製墓標を採用しながら先祖のはかの整備がすすめられたことが判明しとる。
近代以降、西高木家しきちは上屋敷を中心に縮小し、現在は明治年間建造の主屋と1852年の下屋敷御門を移築した長屋門がのこる(屋敷地内非公開)。
また、高木家関連の古文書群は十数万点にもおよび、旗本や交代寄合の特殊なやくわりをしることができる貴重な資料群である。